第57話 負けヒロインさんは見守りたい
「行かせちゃって良かったの?」
自転車でどこかへと駆けていく一樹の背中を見送っていると、琴子の隣に誰かがとんと腰を下ろした。
「行かせちゃって、ですか?」
先ほどまで一樹が腰を下ろしていたその場所には今は桑倉学園美術部部長、
「うん」
燈佳の視線も、琴子のその視線の先を追いかけるようにジッと小さくなっていく背中を見つめている。
「どうしてそんな質問を?」
燈佳がなぜそんな質問を自分に投げかけてきたのか分からない。その意図を察するために琴子は質問に質問で返すことを選んだ。
「あぁいや、志津川さん、もっと立花君と居たいのかと思って」
「高梨さんの目に私はそんな風に映ったのでしょうか……?」
自らの思わぬ姿に、思わず琴子は驚きの表情を浮かべる。
そんなつもりはなかったのだが、観察眼鋭い燈佳には彼女の姿はそんな風に映った様だった。
「私の勘違い……だったら悪いんだけど、志津川さん、立花君のことを随分と気に入ってるみたいだからさ」
「私、そんな風に見えちゃいました?」
「まぁ……ね」
聞いちゃまずいことだっただろうか。そう思った燈佳は誤魔化すように鞄の中から取り出したペットボトルの飲料水を胃の中へと流し込んでいく。
「高梨さんは……」
学園のアイドル、桑倉の天使。そんな異名の多い彼女が自らの疑問をどう誤魔化すのだろうかと燈佳は少し興味があった。
「高梨さんは、初恋の終わらせ方を知っていますか?」
しかしそんな興味とは裏腹に、琴子の口から語られていくのは誤魔化しようのない彼女の本心である。
「へっ!?」
唐突な質問に燈佳の口から素っ頓狂な声が漏れる。
「は、初恋の終わらせ方っ!?」
「ええ」
最初は何かの冗談かとも思った。が、隣に座る琴子の瞳は真剣だ。すっとぼけた返しでも一つしてやろうと思ったものの、琴子の瞳から伝わるそれに燈佳も思わず口を閉じざるを得なかった。
「ま、まじめなお話をしても笑いませんか?」
「もちろんだよっ!」
先ほどの視線を見せられると燈佳の中からそんな気持ちは完全に消え失せてしまう。
「立花君は……私に初恋の終わらせ方を教えてくれた人でした」
「そ、そうなんだ」
「最初は無茶なお願いを彼にしてしまったと後悔したものです。初恋の綺麗な終わらせ方なんてこの世界にあるはずが無いんですから」
「そ、そんなことは……っ」
無い、と言い切れない自分に燈佳は思わず嫌気が差す。
好きな人が居たことは右手の指で足りるぐらいには存在した。結ばれることはなかったけれど、今では友人間で笑い話に出来るぐらいにはいい思い出だった。
だけど自分はそんな気持ちにどう折り合いをつけてきたのだろう。それを考えた時、燈佳はふと心にぽっかりと穴が空いたかのような喪失感を覚えた。
「私、知らないや。初恋の終わらせ方」
ぽつり。そんな喪失感が、燈佳の口から漏れ出した。
「そんな方法があったら私も知りたかったな……」
燈佳の脳裏に浮かぶのは、幼い頃に好きだったとある男の子の横顔だ。思えばあの横顔が彼女の初めての恋だった。
あの顔を自分はいつの間に心の中から消し去ってしまったのだろう。それが彼女の喪失感の正体だった。
「それで、立花君は志津川さんになんて教えてくれたの?」
話の流れでそれが気にならない訳が無かった。桑倉一の美少女と謳われる
燈佳は、一樹が伝えたそれにこそ二人の繋がりの理由があるのだと思った。
「彼が教えてくれたのは至極単純なことでしたよ」
これまでの日々のことを思い出し、琴子は小さく口元を緩めた。
「世界は自分の想像以上に思い通りになりません。ましてや他人の感情なんてその最上級です。もし大好きな人に他に好きな人がいたら――私の恋は、そんな恋でした」
結局琴子がずっと探していたのは、初恋を終わらせる方法なんかじゃなくて、初恋を終わらせようと思い続ける心の強さだったのかもしれない。
「つまり立花君が教えてくれた初恋の終わらせ方って言うのは……」
なんとなく燈佳にも察しがついた。
もし自分の好きな人に想い人がいたら。そう思った彼女の胸中に浮かんできたのは、そんな恋の諦め方だった。
「忘れたいって……思わなかったの?」
琴子の口ぶりから、彼女がどれだけその恋に苦しんできたのかの察しも着く。だけど燈佳の問いかけに琴子は小さく首を横に振った。
「だって本当に好きだったんです。私は最後まで、あの人のことを好きになって良かったって思い続けたかった」
そう口にする琴子の横顔に、思わず同性の燈佳ですら小さく胸が高鳴るのが分かった。
滝田市一の美少女にこんな表情をさせるなんていったいどこの誰なのやら、という嫉妬心すら湧いてくる。
「立花君が教えてくれたのは、初恋を乗り越えて前に進む方法です。思い通りにならなかったことを、それでも良かったと思い続ける。そんな日々をこうして送ることが出来るのは、間違いなく立花君のおかげなのですよ」
その瞳に憂いなんて微塵も無くて、ある種の清々しさすら感じる琴子のその横顔に浮かんでいるのは、一樹への確かな信頼の色なのだろう。
「だから、先ほどの質問に答えさせていただきますね」
琴子は燈佳の方へと向き直ると、その口元にまた再びの笑みを浮かべた。
「私は立花君を信頼しています。だから彼が何かを願った時、その行く末を見届けられる人でいたいんです。もし彼がどこかへ行こうというのなら、その時帰ってこられる場所でありたい」
「随分と思い切ったことを言うね」
世界中の辞書をひっくり返しても、まだそこに載っていない感情がたくさん存在している。琴子がそれを思い知ったのは、初恋を乗り越えて新たな道を歩いていくと決めた時だった。
信頼とも親愛とも情愛とも違う。ただ彼の自由のままにあって欲しいという願い。
「これを恋と呼ぶのであれば、私はきっと立花君に恋をしているのでしょうね」
「でも、志津川さんはそうは思っていないんでしょう?」
「ええ」
燈佳自身にも確信があった。
琴子の抱く思いは、きっとこの世界のどこにもまだ名前のない感情だ。複雑で、だけど蓋を開けて見れば単純で。だけどどこまでも深くて――
「立花君の選択がもし私以外の誰かの心を救うのならば、それは本当に素敵なことだと思います」
その言葉に、燈佳は大きく天を仰いだ。
自分も彼のことは信頼しているつもりだ。だけどスケッチブックの中の二人には、自分なんかが想像もつかないようなやり取りがあったに違いない。
なんとなく胸がソワソワした。だけどその感情の名前も燈佳が世界中どこを探したって見つからないのだろう。
「恋とも友情とも信頼とも違う感情。そんな感情にもしかしたらいつか名前が付くかもしれない。そう考えるとちょっとだけワクワクしません?」
「志津川さんにそこまで言わせるとはねぇ。立花君は罪な男だ」
燈佳はもうすっかり姿が見えなくなってしまったその背中の消えた先へと視線を向けた。
「志津川さんの期待を裏切らないように頑張って欲しいもんだね」
「まったくです」
隣で微笑む琴子に小さく呆れながら、そんな背中へ燈佳は小さくエールを送るのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます