第56話 日常は非日常の彼方
森沢から滝田へ帰って三日。
僕と志津川さんの姿はなぜか千歳川の河川敷にあった。
「いやぁ、悪いね二人とも。どうしても人手が必要でさぁ」
平日の午後。ぽつぽつと余暇を過ごす人たちの中で、僕らを呼び出した当人は相変わらずな声でこちらへ声をかけてくる。
「いえいえっ、お困りとあらば我がボランティア部、いつだってお力になりますよ!」
「……とのことらしいよ、高梨さん」
「そ、そっか、助かるよ……あはは」
なぜかハイテンションな志津川さんに思わず引き気味の彼女こそ再びの依頼主である、桑倉学園美術部部長
彼女が僕に連絡を寄こしたのは森沢から滝田へと戻る道中のことだった。
『絵のモデルを探してるんだけど見つからなくて困ってる』
そんな連絡に迷わず手伝う旨の返信を寄こして見せたのが、今なぜかめちゃくちゃに気合が入っている志津川さんなのである。
「ど、どうして志津川さん、こんなにテンション高いのさ……」
あまりのはしゃぎように高梨さんも気圧されたのか、ぼそりと僕へと事情を尋ねてくる始末だ。
「いやぁ、実はボランティア部の夏休みの予定、今のところ何も入ってなくてさ……」
そうなのだ。あんなに思わせぶりに森沢を後にしたというのに、僕らには夏休みの依頼の予定なんて一つもありゃしなかった。
そんな時に寄せられた『依頼』。ボランティア部として誰かの役に立ちたい志津川さんとしては渡りに船だったのだろう。
「行きましょう、立花君!」。そう口にしながら高梨さんへと了解の連絡を送ったときは僕は思わず小さく頭を抱えたものだった。別に依頼が来ること自体は僕としても大歓迎なのだけれど、正直『絵のモデル』という単語には嫌な記憶しかない。
しかし一度了承しておいて断ると言う訳にもいかず、僕は渋々気合十分な志津川さんに半ば引きずられるように今日この場に足を運んだ次第である。
「それで、今日の依頼なんだけど……」
まぁ、来てしまったものはしょうがない。ボランティア部として精一杯高梨さんの役に立てるように頑張ろう。
「うん。実は今度、市内の高校生向けのコンクールがあってさ」
「高梨さんも応募されるんですか!」
「そだね。それで二人には絵のモデルをお願いできないかなって」
そう言いながら高梨さんは両手を合わせて小さくこちらにお願いをするような仕草を見せてくる。
「まぁ、それぐらいだったら……」
「ホントっ!? 助かるよっ!」
本当に困っていたのだろう。僕の返答にぱぁっと顔を明るくさせた高梨さんは、嬉しそうに一つその場で小さくガッツポーズを浮かべて見せた。
「それで、僕らは何すれば……」
「それなんだけど――」
僕の問いかけに、ふと高梨さんは指先を河川敷のとある場所へと向けた。
「あそこに二人で座っててほしいんだよね」
彼女が指さす先には小さな木製のベンチが置かれている。
千歳川の河川敷はテニスコートやジョギングコース、はたまた子どもたちのための遊具といった体を動かせる設備が多く設置されている。
滝田市民の休日の散歩コースにもなっているようで、そのため道中には利用者が休めるように休憩スペースが一定間隔で設けられている。
高梨さんが指さしたベンチも、そんな休憩スペースに置かれているベンチの一つだ。
「座るだけ?」
「うん、座りながら千歳川の方を眺めててほしいんだよね」
「それだけですか?」
「うん。それだけでいいんだ」
そう言いながら彼女はスケッチブックを片手に僕らの背中側を陣取った。
「背中越しに千歳川を見る男女のカップルを描きたいんだよ」
「か、カップルって……」
「まぁ、そういう設定だから男女なら誰でも良かったんだよねぇ」
そう言って高梨さんはケラケラと笑い声をあげる。
「それでちょうどよかったのがボランティア部だったと……」
「そゆこと」
それだけを言い残すと、高梨さんはいそいそとスケッチの準備を始めてしまった。
「よろしくね、お二人さん」
一度受けた依頼はしっかりとこなすのが僕の信条だ。それに、今回に限ってはそんなに体も頭も使わない。高梨さん曰くただ座っていれば良いだけらしい。
「それじゃあ行きましょうか!」
志津川さんが僕の手を引いてベンチへと向かっていく。なんだかここだけ切り取れば本当にそれっぽいカップルだけど、お生憎と僕と志津川さんはそんな関係じゃなかった。
「こんな感じですかー?」
僕と志津川さんがベンチへと腰を下ろすと、確認のために彼女が高梨さんの方へと一声かける。
「うん、いい感じ。もうちょい二人が近いとイメージ湧くかも」
「ち、近い感じ……」
僕と志津川さんの距離は拳三つ分ぐらいだろうか。正直これでもギリギリの限界だと思う。
なぜならばここは千歳川の河川敷で、今が夏休みど真ん中の昼下がりだからである。
こんなところで隣り合っている僕らを見たら滝田に住む高校生は一体どう思うのだろうか。
きっと彼らのSNSには『志津川さんの隣にいるあのつまらなさそうな男は誰だ』、や『あの男は無理やり志津川さんにあんなことをさせているに違いない』や『アイツを殺せ』なんて書き込みが溢れるに違いない。
正直生きた心地がしない。
これじゃあ夏休みが明けるどころか夏休み中に僕の命が危うくなってしまいかねない。
「どうしてそんなに緊張してるんです?」
僕の様子を見かねたのか、志津川さんが声をかけてくる。
「あぁいや、志津川さんはもっと自分が周囲にどう見えてるのか自覚したほうが良いって話」
「私が立花君と座っているのが不満ですか?」
「不満って訳じゃないんだけど……その、僕じゃ相応しくないんじゃないかって」
全く持って言葉のとおりである。
彼女の好きだった仁科君。イケメンでスポーツも出来て勉強だって学年上位。おまけに人当たりも良くて誰にだって気の利く男ときたものだ。
そんな男が今僕の代わりに志津川さんの隣にいたら、きっと誰だってけちのつけようもないだろう。
もし志津川さんの隣にいたい男がこの滝田に山ほどいたとしても、彼ならそのほとんどを蹴散らしてくれるだろう。
「そんなこと言う立花君だったら嫌かもしれませんねぇ」
僕の言葉に、しかし志津川さんはどこか悪戯っぽい視線でそう呟いた。
「この前ファミレスで言ったじゃないですか。私は信頼してるんですよ、立花君のことを。だからもうちょっと自信持ってくださいな」
そう口にした志津川さんは、小さく腰を浮かせると僕の方へ腰一つ分だけ体を動かした。
僕が人として信頼されているのと、男として彼女の隣にいられるかというのはまた別問題のような気がする。
「それとこれとはまた別の話で――」
だけど、そんな僕の言葉も眩しいくらいの彼女の笑顔で遮られてしまう。
(そんな顔で見られたら、もうこれ以上何も言えないじゃないか)
僕は小さく腰を浮かすと、拳一つ分の距離を彼女と縮める。
併せて拳一つ分。僕と志津川さんの距離は、今はこれが限界だ。
「……にしし、なんだかいい感じだね、お二人さん」
高梨さんからのちゃちゃが入るけど、それも聞こえないことにした。
「なんだかこうして立花君と二人でのんびりするのは初めてかもしれませんねぇ」
「そうかも……」
「森沢、楽しかったですね」
「そうだね」
「また、どこかにご一緒できればいいですね」
「志津川さんとなら楽しそうだ」
きっと彼女とならどこへ行っても楽しい時間が過ごせるだろう。それから幾つか他愛のない話を交わしたけれど、ある時不意に志津川さんが先ほどまで流暢に言葉を紡いでいた口を閉ざした。
「……どうかした?」
「あーいや、一つ大切なことを忘れていたな、と思いまして」
はて、僕は何か重要なことを忘れてしまっているのだろうか。
「私の当初の目標をお忘れですか?」
「志津川さんの目標?」
彼女の目標ってなんだったっけ。ボランティア部としてこうしてお手伝いは出来ている訳だし、仁科君との初恋だって一応彼女なりに決着をつけられたはずだ。
それ以外に志津川さんにとって大切なこととは――
「私より、強い奴に会いに行いたい」
「それって……」
確か彼女がボランティア部への入部を希望した際に、僕の家で放った言葉だった。
「彩夏さんは……」
ぽつり、恐る恐ると言った様子で志津川さんは言葉を紡ぐ。
「
『最強』の『負けヒロイン』であること。それが彼女、
そしてそんな彼女のもう一つの望み。
それは恋敗れる女の子たちが少しだけ前を向けるような、その手伝いをしていくこと。
志津川さんはずっと気付いていたんだろう。鳴海さんが同じ人を好きでいる事。その恋に破れたこと。そしてその恋で苦しんでいる事。
だからあの日、ファミレスで僕にあんな言葉をかけたのだ。
そうか、僕はまだ鳴海さんに聞かなきゃいけないことがたくさんあるんだ。
「それは――」
「よし、出来たっ!」
僕の答えは、しかし高梨さんの達成感溢れる声に遮られた。
「いやぁ助かったよお二人さん! それで、お礼も兼ねてこれから三人でファミレスでもどうかなって」
しかしそんな高梨さんからの提案に、僕は小さく首を振る。
「ごめん、それなんだけど……」
「ありゃ、立花君、ダメな感じ?」
露骨に残念そうな顔を浮かべる高梨さんに、しかし僕の意図を察してか志津川さんは小さく肩をすくめて見せた。
「行かなきゃいけないところがあるんですよね?」
全く、本当に志津川さんには頭が上がらない。僕のやろうとしていることを、彼女はいつだって優しく見守ってくれるのだ。
今だってそう。
彼女の優し気な視線は、しかし僕を「行ってこい」と強く後押ししている。
「ごめん高梨さん。僕はこの後行かなきゃいけないところがあって」
「ちなみにどこに行くか聞いても?」
街の北へと視線をやると、見覚えのある銀色のバルーンが浮かんでいた。
そのバルーンのふもとではきっと彼女が今日も空を見上げているはずだ。
「うん、空を思い出した天才少女のところへ」
僕の言葉に、志津川さんが小さく笑った。
それだけで、きっと僕の行動理由は十分なんだ。
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