第55話 八月の君はあまりにも綺麗
「二人とも、忘れ物はないかい?」
森沢に着いて三日目の朝も、雲一つない快晴だった。
遠くまで広がる青空は、まるで森沢の海の色が溶け出したかのような綺麗な色をしている。
「はい、三日間お世話になりましたっ」
「おいしいご飯も頂けて大変素敵な時間を過ごさせていただきました」
見送りに来てくれた出勤前の学人さんに挨拶を交わし、僕と志津川さんは荷物を薫子さんのバンへと積み込んでいく。
「……ありがとう、立花君」
意気揚々と後部座席へと乗り込んでいく志津川さんを見ていると、ふと学人さんが僕へと声をかけてきた。
「そんな、大したことは僕はしていませんよ」
それは本当だ。僕はただ鳴海さんと幾つか言葉を交わしただけ。彼女に何かをしてやれた訳でもないし、彼女が向き合う何かを変えられた訳でもない。
鳴海さんが変わったのは、きっと彼女自身が悩み、向き合い、そして選び取った結果だ。
「それでも、だよ」
そんな僕の思考を見抜いたかのように、それでもと学人さんは言葉を紡ぐ。
「僕に息子が出来たら、きっとこんな感じだったんだろうか」
「あはは……どうでしょう」
磯山夫妻に子どもは居ない。鳴海さんを実の子どものようにかわいがっているところを見ているとなんとなく思うところがあるのだけれど、それもこれも僕の勝手な邪推に過ぎなかった。
誰かの感情に寄り添いたいと思うのは恥ずべきことじゃない。だけどそこから行動に移すには何よりも相手のことを考えるべきだ。
この三日で僕が一番印象に残っている言葉は、何よりも今目の前でどこか寂しそうな顔を浮かべている学人さんの言葉だった。
「……またおいで」
「はい、その時はまたお世話になります」
一つ小さく握手を交わし、僕も薫子さんの車へと乗り込んでいく。
「……何を話してたんですか?」
後部座席に乗り込むと、僕らのやり取りを見ていたのだろう志津川さんが声をかけてきた。
「……男同士の、秘密のやり取りだよ」
「ふふっ、なんです、それ」
僕の返事に、だけど志津川さんは小さく嬉しそうに笑ってくれた。
「じゃ、三人とも車出すよ」
薫子さんの掛け声でゆっくりと車は森沢駅へと頭を向ける。
「……ん、三人!?」
「私もいるよ」
僕の疑問を受けて、ひょっこりと鳴海さんが助手席から顔を覗かせてきた。
「鳴海さんはまだ帰らないんじゃ……」
そう言えば昨日夕食時にそんな話をしたのを思い出した。
結局、薫子さんはあのログハウスを手放す決意をしたらしい。それを受けて鳴海さんも最後の思い出作りにと、もうしばらくあのログハウスでの時間を選んだのだそうだ。
「見送りぐらいいいじゃん」
ぷぅ、と一つ頬を膨らませて鳴海さんは助手席へと戻っていく。
「ありがとうございます、彩夏さん」
「ほら、立花君と違って琴子は素直だよ」
「素直だとかそうじゃないとかそういう話じゃないと思うんだけど……」
そんな僕らのやり取りを運転席の薫子さんは笑いながら聞いていた。
「いいねぇ、仲が良いってのは」
「そういうもんですかね」
「同年代の友達ってのは貴重だよ」
ハンドルを景気よく撫でまわしながら、薫子さんは嬉しそうにそう呟いた。
それは愛娘のように可愛がる鳴海さんの成長を喜ぶが故か、それともかつての自分の姿を僕らに重ねたが故か。
彼女の感情の行く末は、その心に寄り添う先すら僕には見せてはくれなかった。
その後、車は何事もなく森沢駅のロータリーへと流れるように進入していく。
「さ、着いたよ」
ちょうど僕らが森沢にやって来た時とほとんど変わらぬその場所に停まると、薫子さんは一仕事やり終えたかのように満足そうな声でそう口を開いた。
「ありがとうございました」
「三日間お世話になりました」
一言お礼を告げて車から降りる。
「はいよ、またおいでね」
「その時はぜひに」
運転席の窓から小さく手を振る薫子さんへと手を振り返すと、そのまま僕らは改札の方へと向かっていく。
「立花君、まだお時間ありますよね?」
そんな時だった。何かを目ざとく見つけた志津川さんが目を輝かせながら僕へと声をかけてくる。
「え、あ、まぁ、後30分ぐらいしかないけど……」
「それぐらいあれば大丈夫ですっ!」
それだけを言い残して志津川さんは一目散にどこかへと駆け出していく。そんな彼女の向かう先には、駅に併設する小さなお土産屋さんが佇んでいる。
「……琴子はなんというか、変わらないね」
「そうかなぁ……僕はそうは思わないけど」
そんな僕の答えに、鳴海さんは小さく驚いたように目を丸めていた。
「意外。立花君がそんなことを言うなんて」
「僕も少しこんなこと言っちゃう自分にびっくりしてるよ」
学園のアイドル。桑倉学園の天使。
僕が初めて出会った彼女はみんなが想像する
でも少しずつ一緒にいる時間が増えて、彼女も等身大の女の子だという事を自覚させられた。恋心に苦しんで、好きな人のために笑って、好きな人のために悩んで。
彼女の今が果たして本当に最善だったのかは分からない。
でも出会った当初の志津川さんよりも、初恋を乗り越えた彼女の方が間違いなく僕の知る中で一番魅力的な志津川さんなんだと思っている。
「まだ時間あるよね、せっかくだから少し琴子を待ってよっか」
先導する鳴海さんにつられるように向かった先は、駅のロータリーの端っこの方の小さなベンチだった。
改札から少し離れたこの場所は、普段は路線バスの駐車スペースになっているらしい。しかし間が良いのか悪いのかバスの姿はどこにも見えず、僕と鳴海さんだけが隣り合ってベンチに腰を下ろすことになった。
「海がよく見えるんだね」
「うん」
森沢駅はホームが改札よりも低い位置に存在してる。必然、僕らの視界にはホームの屋根を飛び越えてその向こうに広がる青々とした海が飛び込んでくる。
それから暫く森沢のことや学校生活なんかの些細な話をして僕らは時間をつぶした。そろそろ良い時間になったころだろうか。
「改めてありがとね、立花君」
不意に鳴海さんが僕に礼を述べてきた。何に対してのありがとうなのか、今更尋ねるような野暮なマネは僕はしなかった。
「僕はただ鳴海さんと少し話をしただけだよ」
「それでも、だよ」
瞬間、潮風が僕らの間を勢いよく駆け抜けていった。
夏の暑さを浚うように吹き抜ける風に、思わず目をつぶってしまう。
「だから――」
直後、僕の頬を襲ったのは夏風の爽やかさではなく、柔らかく小さな一つの熱だった。
「これはお礼」
隣では、相も変わらず綺麗な黒髪を靡かせている鳴海さんが、どこか照れくさそうに自分の唇に指をあてていた。
「え、あ、えっと、その……」
今更何をされたのか分からない自分ではなかった。でも、どうしてという疑問と今起こった出来事を素直に受け入れられずにいる自分に頭がどうにかなりそうだった。
「……何も言わないで」
「え、あ、うん……」
何か言ったほうが良いのかと逡巡するも、それも鳴海さんに遮られてしまう。
そして僕は、隣で小さく照れくさそうに笑い続ける彼女に魅入ってしまっていた。
「ほら、そろそろ時間じゃない?」
そんな言葉で僕は現実へと引き戻される。鳴海さんの視線の先には、両手にお土産の袋を抱えた志津川さんの姿があった。
「そ、そうだね……」
その後の鳴海さんは、さっきのことなんて何もなかったかのように普段通りの振る舞いを見せていた。
勝手に一人で心臓をバクバクさせている僕がバカみたいに思えてくるけど、だからといって簡単に胸の鼓動がおさまってくれるほど僕の体も単純には出来ていない。
「二人とも、改めてありがとう」
「いいえ、また困ったことがありましたら、ボランティア部にいつでもお声掛けください」
「う、うん、いつでも頼ってね」
鳴海さんに見送られながらそのまま僕らは到着の電車が入ってくるホームへと向かっていく。
美少女の唇の残滓を撫でながら、また別の美少女と歩いてく。
なんだかとてつもなく悪いことをしている気分だった。
「立花君、どうかしましたか?」
「へっ、いや、なにもっ!?」
道中、僕の様子がおかしかったのかふと志津川さんが心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
慌てて否定して見せるものの、勘のいい彼女を誤魔化せたかどうかちょっと不安だ。
「……ならいいんですけど」
何か言いたげだった志津川さんだが、どうやらそれで納得してくれたらしい。
ホームに着くと、ちょうど僕らが乗る電車がやってくるのが目に見えた。
「立花君、滝田に戻ったら何をしましょうか」
ふと、景気よく扉を開く乗車口に向かいながら、志津川さんはそんなことを呟いた。
「何かやりたいの?」
そんな問いかけに僕は呆れるように小さく声をあげる。森沢での出来事は、楽しかったし良い思い出だ。でも、普段インドア派を自称している身としては少々ハードすぎるきらいもある。
「……不満げですね」
「まぁ、正直疲れたからね」
この調子だと帰りの電車の中はすっかり夢の中だろう。
だけどそんな僕とは正反対に、志津川さんはとびっきりの笑顔で僕へと言うのだ。
「私たちの夏は始まったばかりですよっ!」
そんな笑顔を見せられると、変わったばかりの彼女に振り回されるのも悪くないなと思ってしまう自分がいることに気づく。
八月のカレンダーもまだ捲られたばかり。どうやら、高校二年生の夏休みはまだまだ僕を家の中に閉じこもらせてはくれないらしい。
でもそれでいいのだ。それこそが僕が決めたことの結果であり、僕が歩んでいく道の途中なのである。
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