第54話 森沢の夜は更け
森沢での最後の晩餐は磯山家の庭で行われた小さなバーベキューパーティーだった。
磯山家の縁側のそばには小さな庭が広がっていて、そこでは今、学人さんと薫子さんが事前に準備をしてくれていたのだろうバーベキューセットがメラメラと赤い炎を揺らしている。
「まさかここまでしていただけるとは思ってもいませんでした」
縁側に座り缶ビールを煽る学人さんへと声をかけると、彼は小さく口元に笑みを浮かべた。
「さやちゃんには出来る限りのことをしてあげたいからね……」
そんな彼の視線の先では、紙皿に焼けた大きなエビを乗せて満足そうな志津川さんと、そんな彼女を呆れ顔で見つめる鳴海さんの姿があった。
「でも、僕らまでご一緒させてもらうなんて……」
そう言うと学人さんはどこか不満げな顔で僕の背中を一つ叩く。
「どの口が言うんだい。君たちはさやちゃんの大切な友人たちだろう?」
そう言って再び缶ビールを煽る。
「この二日間はさやちゃんにとってきっと貴重な二日間だったはずだよ」
僕を見つめる学人さんの視線は、この二日で見たどんな彼の目よりも優し気な表情をしていた。
「あの子が森沢にやってくるのは二年ぶりだ。お義父さんが死んでから毎年のようにお墓参りに来ていたのに、ご両親が亡くなってぴったりとその足が途絶えた」
「……そうなんですか」
「あぁ、でも今年に限って、そんな彼女から薫子に連絡が来たんだ。森沢に来たいからお邪魔していいかって」
ご両親の死で何かを忘れてしまった彼女が再びそれを思い出したいと思ったきっかけ。
それがきっと鳴海さんにはあったのだろう。
「好きな人でも出来たのかねぇ……」
ぽつり、学人さんは不意にそんな言葉を呟いた。
「ど、どうしてそう思うんですか!?」
あまりにも確信めいた言葉に僕の心臓が一つ跳ねる。
「いやぁ、薫子がそんなことを言っていたから」
あの人……思ったよりそういうデリカシーが無いのだろうか。いや、たしか磯山夫妻には子どもがいない。薫子さんの鳴海さんへの態度を見るに、きっと二人とも我が子のように彼女のことを可愛がってきたに違いない。
そりゃ我が子のように思う彼女の恋路に興味が湧かない訳も無い。
「ま、何にせよ、だ。君たちが来る前のさやちゃんはどこかずっと寂しそうだった。それが今はどうだい」
再び彼の視線が鳴海さんの方へと向けられる。つられて僕もそちらを見ると、そこでは僕の腕ほどもある大きなエビを熱心に二人で解体する鳴海さんと志津川さんの姿があった。
「あんなに楽しそうじゃないか」
「楽しそう……ですかね?」
エビの解体が楽しい作業なのかどうかわからないけど、どうやら長年の付き合いのある学人さんには鳴海さんの姿はそんな風に見えるらしい。
「立花君は……やり遂げたかい?」
ふと、学人さんがビールを煽る手を止めて僕へとそんな疑問を投げかけてくる。
今更何を、なんて野暮なことを尋ねるような間柄じゃなかった。学人さんは僕を信じて鳴海さんの過去を話してくれた。
そして僕は彼の期待を裏切らないように、鳴海さんの全力の支えになれるように、と精一杯に彼女に向き合ってきたつもりだ。
だから僕が答える言葉は一つだけ。
「ええ、もちろんです」
僕の答えに満足したのか、学人さんはふと立ち上がると、それはよかったとだけ言い残してバーベキューセットの方へと向かっていった。
それからしばらくして、今度は学人さんも加わって三人でエビの解体作業に勤しむ様を眺めていると、ふと僕の隣に誰かが座るのが分かった。
今視線の先にいるのは志津川さんと鳴海さん、そして先ほど加わった学人さんだ。必然、僕の隣に座る人物は自然と限られてくるというものだ。
「ちゃんと食べてる?」
野菜とお肉がいくつか乗った紙皿を僕へと手渡しながら、薫子さんが僕の隣へと腰を下ろした。
「はい、頂いてます! お肉も美味しいですけど、貝を焼いた奴が特に気に入ってます」
「あら、なかなか通じゃない。旦那もこれが好きなのよ」
「バター醤油ってなんでこんなに貝と相性がいいんでしょうね」
「それもいいけど酒蒸しにした奴も美味しいのよぉ」
酒蒸しか……普段の食生活ではあまり馴染みがないけれど、そのフレーズを聞くだけで思わず口の奥から涎がジワリと浮き出てしまう響きだ。
「また森沢に来ることがあったらその時は作ってあげるわね」
「それは……楽しみですね」
ひょんなことから出来た縁だったけれど、僕は存外にこの森沢という街を気に入っていた。
海と山が綺麗で海産物も美味しい街。だけど僕がこの街で一番気に入っているのは――
「今日は風が涼しいわね」
「昼間は暑かったけど、夕方は涼しくて気持ちがいいです」
時折頬を撫でていく、この心地よい潮風だった。
「あの、薫子さん」
薫子さんは相変わらず綺麗な人だった。
ご両親を亡くした鳴海さんをもしかしたら一番気にかけていたのは彼女だったのかもしれない。
だからこそ、僕はそんな彼女に一つどうしても尋ねたいことがあった。
「何かな、立花君」
「お祖父さんのあのログハウス……もしかしなくても、鳴海さんのためにずっと守り続けてきたんですか?」
鳴海さんの大切な場所。彼女がずっとあの場所を手放さずにいたのは何よりも鳴海さんのためだったのかもしれない。
「お父さんが死んですぐにね、市の担当者から私のところに連絡が来たの。あの場所を買い取らせてくれないかって」
この街で最も空に近い場所。
ログハウスのベランダからこの森沢の街並みを見下ろしたとき、僕はふとそんな感想を抱いた。
大地と海を隔てる海岸線。どこまでも広がっていく海。うねるように生い茂る緑の木々。しかしそんな綺麗な自然よりも何よりも僕の心を打ったのは、その上で凛と澄み続ける雄大な空だった。
あの場所は、そんな空にこの街で最も近い場所だった。
「子どもたちの教育施設にしたいんだって。あの山は自然も豊かだし、街からのアクセスもいい。近くにはキャンプ場もあったりする。確かに私も良い場所だと思うよ。でもさ、さやちゃんのことを考えるとどうしても手放せなかったんだ」
「……ということは」
「うん、もういいかなって」
鳴海さんのためにずっと守り続けてきた場所。
その場所の役目が終わったことを、薫子さんはきっと悟ったのだろう。
「今のさやちゃんを見てると思うよ。お父さんのアトリエは、もうその仕事を終えたんだって」
「もしかしなくても鳴海さんはその話を……」
「知ってたんじゃないかな。そうじゃないと急にお爺ちゃんのアトリエを掃除したい、なんて私に言ってこないと思うよ」
鳴海さんは最初からお祖父さんとの思い出の場所と一つ区切りをつけようとしていたんだ。
「ねぇ、立花君」
ふと薫子さんが僕の名前を呼んだ。その横顔はあまりに綺麗で、だけどそれだけじゃなくて――
「さやちゃんが好きだった人は、素敵な人?」
「……ええ、カッコよくて、優しくて、運動も出来て、勉強も出来て……誰よりも他人のことが思える人ですよ」
「そっか……
なんというか僕の大好きな人たちによく似ていた。
「立花くーん!」
遠くの方で志津川さんが僕を呼ぶ。隣の薫子さんに目配せをすると、彼女は小さくいっておいで、とだけ呟いた。
彼女にもっと聞きたいことがいっぱいあったけど、さっきの横顔を見せられると僕はそれ以上何も言えなくなってしまっている。
「行ってきます」
それだけを言い残し彼女の元を去ると、いつの間にか僕もエビの解体作業をなぜか手伝わされることになる。
「楽しいね」
不意に鳴海さんが僕の耳に届くぐらいの声でそう呟く。
「……うん、そうだね」
僕の返答に、鳴海さんは小さくその綺麗な黒真珠の髪を揺らして笑った。
森沢の夜は更けていく。
一人の少女の祈りと願いをめいいっぱいに吸い込んだその場所は、少女を次の場所へと押し進めるのだろう。
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