第53話 思い出を描いて

「小さい頃はね、ここでよくお爺ちゃんが絵を描いてるのを見てたんだ」


 木製のリクライニングチェアに腰かけながら、鳴海さんはぽつりと小さく呟いた。


 彼女が腰掛けるそれは、生前彼女の祖父が絵を描くときに使っていたものだそうだ。


 椅子はベランダから外の景色を見渡せるような位置にあり、腰掛ける彼女の視界には今遠くに広がる森沢の海が広がっていることだろう。


「それが鳴海さんが絵を描くようになったきっかけ?」

「うん」


 黒真珠の美少女は、ここに来てようやく自らの過去を少しずつ話し始めてくれていた。


「絵を描くとお爺ちゃんがすっごく褒めてくれて、それが嬉しくて沢山絵を描いた」

「お祖父さんもすごい画家だったんでしょ? だったら鳴海さんにも才能があったってことだね」

「それは……どうか分からないけど。お爺ちゃんはそれからしばらくして死んじゃったんだけど、でもお爺ちゃんとの思い出がずっと私に絵を描かせ続けてくれてたのかも」


 彼女の口ぶりからして、僕はこれは随分と話が長くなりそうだな、と察した。


 近くの床に腰を下ろすと、そのまま傍の壁に背を預ける。掃除前で埃まみれの床だけど、この際それは鳴海さんの話よりも些細なことだった。


「絵を描かなくなったのはお祖父さんが亡くなったことが理由じゃなかったんだね」

「うん……最後に絵を描いたのは中学校の時。お父さんとお母さんが居なくなっちゃってから」


 僕が美術準備室で見かけた絵。あれが恐らく鳴海さんが最後に描いた絵なんだろう。


「ずっと私の大切な人が私の絵を褒めてくれてた」


 それが彼女の祖父でありそしてご両親だった。


「でも、そんな人を無くした今、いったい誰が私の絵を褒めてくれるんだろう。絵を褒めてもらえない私は誰からも必要とされていないんじゃないか。そう思った瞬間、不意に絵を描くことが怖くなったんだ」

 

 彼女の絵を評価していた人は沢山いた。一目見てあの絵がどれほど素晴らしいものなのか、絵心や知識がない僕にだって分かった。


 とある美術評論家は彼女のことをこう評した。曰く、空を忘れた天才少女。


 だけど天才とさえ言わしめたその評価でさえ、鳴海さんにとってはきっと本当に欲しかった言葉ではなかった。


 鳴海さんにとっての最大の評価は彼女の祖父の言葉であり、そしてご両親の言葉だったのだろう。


「昔お爺ちゃんにね、彩夏は何のために絵を描くんだいって聞かれたことがあるんだ」

「鳴海さんはそれになんて答えたの?」

「私はそれにお爺ちゃんに褒められたいからって答えたのを覚えてるよ」


 そう言って鳴海さんはその綺麗な横顔に苦笑いを浮かべた。


「逆にお爺ちゃんはどうして絵を描くの? って聞いたら、お爺ちゃんは笑ってこう答えたよ。お金のためだってね」


 腰掛けた椅子に深く座り直すと、鳴海さんは何もない天井へと視線を移した。


「でも今なら分かる。きっとお爺ちゃんはそれ以上に大切な何かのために絵を描いていたんだって」

「大切な何か?」

「うん、それが何かは分からないけどさ、私にさえ言葉に出来ない大切な何かがあったんだと思う。画家、瀬名寛治せなかんじの原点って言うのかな。それが、きっとあったんだと思う」


 原点という言葉に、僕は不意に先日の志津川さんとのやり取りを思い出した。


 僕にとっての大切なこと。それが志津川さんとのやり取りには隠されていたからだった。


「大切なものってさ、それがきっとその人にとっての忘れたくないものなんだと思う」

「大切なもの……かぁ」

「うん。鳴海さんが大切にしたいもの。それがきっと忘れたくないものなんだよ」

「琴子にも……あるのかな?」


 ふと、鳴海さんが志津川さんの名前を上げた。


 脳裏に彼女の笑顔が過っていた僕としては、心の内が読まれたのかと内心少しドキリとする。


「ど、どうして志津川さんの名前が?」

「え? あぁ、いや、ふと思っただけ」


 うーん、実は志津川さんの本心は意外と言葉にすると下らないものだけど、これを果たして他人に口にしていいものかどうか。


 多分未だに志津川さんは『最強』の『負けヒロイン』になることを諦めていない。


 いや、僕らの中では志津川さんが最強負けヒロインであることは間違いないのだけれど、彼女はまだ見ぬ強敵を追い求めている節がある。


「最強の負けヒロイン……かぁ」


 ぽつり、と僕の思考が口から零れた。


「……なにそれ」


 しかし僕の呟きは、近くの鳴海さんにはばっちりと届いていたらしい。


「え、あ、えっと……聞かなかったことには……」

「出来ない」


 そう言い切る鳴海さんの視線はまるで呆れるように冷ややかだった。


「志津川さんはさ、初恋にさよならを告げた人なんだよ」

「昨日お風呂で言ってた。琴子も仁科君が好きだったんでしょ?」


 本人のいないところでこの話をするのは若干の躊躇いがあったけど、これも鳴海さんとのことを思えば許されるような気もしてくる。


「その時にさ、琴子がこんなことを言ってたんだ。お別れをちゃんと言えたって。それもその、立花君が言ってた負けヒロインってのに繋がるの?」


 事後承諾になってしまうけど、怒られたらその時でちゃんと志津川さんには鳴海さんに彼女の話をしたことを言おう。


「それは……どうだろう」

「前に立花君が教えてくれたよね、負けヒロインが何かって」

「あー、それは……」


 夏休みが始まる前、確か鳴海さんとそんな話をしたことを覚えている。


 僕がふと溢した言葉に、今みたいに彼女が食いついてきたのがきっかけだった。


「よくわかんないけどさ、負けヒロインって、当て馬みたいな奴じゃないの?」

「その通りなんだけど、あまりにも率直過ぎない?」

「……図星か」


 僕の反応が分かりやすすぎたのか、鳴海さんは小さく笑い声を零す。


「わかんないなぁ。どうしてそんな子たちみたいに琴子がなりたいの?」


 鳴海さんの疑問はごもっともかもしれない。あまり理解されない好みなことも僕らはよく知っている。でも確かに彼女達には彼女達にしかない魅力があって、僕はそれにずっと憧れ続けてきた。


 だからこそ、僕は志津川さんの強い願いをはっきりと言葉にすることが出来る。


「悔しくても、悲しくても、それでも好きだった人のために精一杯笑えるような、前向きな女の子。志津川さんがなりたいのはそんな女の子なんだ」

「悔しくても……悲しくても……」

「うん、前向きな女の子。それが、志津川さんの憧れなんだよ」


 鳴海さんは何かに気づいたかのようにハッと小さく顔を見開いた。


「……なんかいいね、それ」

「でしょ。僕もすごく素敵だと思う」


 そう言うと、僕らは二人で顔を見合わせて笑った。


「お二人ともー、ちゃんとお掃除してますかー?」


 そんな時だった。僕らの笑い声が響いたのか、階下から志津川さんの声が聞こえてくる。


「……全くやってなかったね」

「琴子に怒られちゃうかも」


 鳴海さんから箒を受け取りながら、僕はそっと彼女の横顔を盗み見る。


 そこには昨日のような憂いはもうなくて、ただ静かに佇む黒真珠の美少女が居るのみだ。


「……どうかした?」


 不意に、彼女の綺麗な瞳が僕を捉える。


「いや、なんでもないよ」

「ならいいけど」


 そんなこんなで二日目の掃除も順調に終わりを迎え、僕らは森沢で過ごす最後の夜を迎えるのだった。

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