第52話 そして少女の新たな依頼

 森沢にやってきて二日目の朝は、これまた空一面雲一つない快晴だった。


 朝から燦燦とぎらつく太陽の日差しが眩しい。天気予報ではお昼過ぎには猛暑日を優に超えるらしく、今日もより一層の体調管理が必要とされる一日になりそうだ。


 僕らはと言えば朝食を軽く済ませて既にもうログハウスへと向かう道中を進んでいるところだ。


「今日も昨日みたいに晩御飯期待しててね」


 薫子さんの車に乗り込む直前、見送りに来ていた学人さんが僕らへそんな言葉をかけてくれたのが記憶に新しい。


「それでですねっ、そのタルトがまた絶品でっ! 上に乗ったいちごがタルトの生地とマッチしてまたこれがおいしいんですよっ!」

「へぇ、それはぜひ食べてみたいわねっ」

「はいっ、滝田にお越しの際はぜひ私、志津川琴子がご案内させていただきます!」


 志津川さんはもうすっかり薫子さんと仲良しだ。


 昨日から随分と言葉を交わしているらしく、今も最近食べたスイーツの話で盛り上がっている。こういうところは本当に志津川さんの魅力で、誰とでも仲良くなれるその才は人付き合いが苦手な方である僕としては大変に羨ましい限りだ。


 そしてそんな車内にはもう一人――


「……どうかした?」

「あぁ、いや、なんでもない」


 隣でどこか退屈そうな顔で窓の外を見つめていた鳴海さんは、僕の視線に気づいたのかこちらを一瞥するとまた元の姿勢に戻っていく。


(どうして今日に限って志津川さんは助手席を陣取ったんだ……)


 車に乗り込む際、なぜか志津川さんは意気揚々と車の前方の扉を開いた。必然、後部座席で隣り合うのは僕と鳴海さんになるのだけれど、昨日あんな会話をした手前隣り合うのは妙に気まずい。


 ちらと隣を覗き込むが、鳴海さんのその綺麗な横顔からは彼女の心情を読み取ることは微塵も出来そうにない。


(鳴海さんは気まずくないのかな……)


 道中、僕の心はそんな思考に大半が支配され続けていた。


「それじゃ、まずは昨日の続きからやろうか」


 ログハウスに着いた僕らがまずとりかかったのは建物周辺の草むしりだった。


 昨日中途半端になっていた作業の続きになる。


 随分と見晴らしはよくなったけれど、それでもまだまだ地面を覆う雑草は多い。鳴海さんの掛け声で作業を開始した僕らは、そのままお昼過ぎまでただ黙々と、途中で休憩がてらの雑談を挟みつつ、お昼前まで建物周辺の草むしりに勤しんだのである。


「そろそろお昼にしようか」


 そんな声が聞こえてきたのは僕が山盛りになった雑草を建物から少し離れた山の斜面へと捨てに戻ったそんな時だった。


「あぁ、すっかり夢中になってしまっていましたね」


 額にジワリと玉のような汗を滲ませた志津川さんが満足げにそう呟く。


 彼女の表情通り、2時間程時間を割いたおかげかログハウスの周りは昨日来た時とは見違えるほどに綺麗になっていた。


「それじゃあ私、お昼の準備してきますねっ!」

「私も手伝う」

「それじゃあ、僕はこの辺の後片付けをしてから向かうよ」


 昨日と同じように昼食はリビングルームのテーブルを使用することになった。


 鎌やスコップなんかを納屋へと片づけて僕がリビングルームへと向かうと、もう既に昼ごはんの用意が出来ていた。


 今日もお昼は薫子さん特製のお弁当らしい。机の上にはおいしそうなサンドウィッチが箱型のバスケットに敷き詰められている。


 夏場の暑い時期で食欲はあまり出ないが、真っ白なパンの間からチラチラと覗き見えるおいしそうな具材が動いた後の体には随分と刺激的だ。


「立花君、ウェットティッシュがありますので、水道で先に手を洗ってきてくださいな」

「分かった」


 言われるがままに手を洗って席へと着くと、さっそくサンドウィッチへと手を伸ばす。


「うん、おいしいっ!」

「ですねぇ、色々な具材が挟まっていて嬉しい限りですっ!」


 風通しのいい屋内とはいえ今日も一日暑い日が続いている。だけどそんな気温ですら志津川さんの食欲には勝てないらしい。


 景気よく口へと放り込まれるサンドウィッチを見ていると、自然とこちらの食欲も湧いてくるというものだ。


「あのさ」


 昼食も終わりかけの頃だった。バスケットに残った最後のサンドウィッチに志津川さんが手を伸ばしかけた時、ふと鳴海さんが思いつめた顔でぽつりと声を上げた。


「どうかしましたか?」


 掴み取ったサンドウィッチを口に運びながら、志津川さんは心配そうな顔で鳴海さんを見つめる。


「いや、午後からの作業について少し話しておきたいことがあって……」


 そう言って鳴海さんの視線は、二階へと続く階段に向けられる。


「二階の掃除をしようと思うんだ」

「二階は確か三部屋だっけ?」


 昨日確か鳴海さんがそう言っていた気がする。


「腕が鳴りますねっ!」

「それなんだけど……」


 志津川さんの強い意気込みと反して、だけど鳴海さんの顔色は優れない。


「掃除をするのは一部屋だけなんだ。だから午後はすぐに終わると思う。それで……」


 何かを言いかけた鳴海さんの視線はサンドウィッチの最後の一口を頬張り上げた志津川さんへと向かっていた。


「琴子、後で一つお願いがあるんだ」


 真剣な眼差しで志津川さんを見つめる彼女。そしてそんな視線を向けられた志津川さんも、またどこか優し気な眼差しで鳴海さんを見つめていた。


「わかりました、彩夏さん」


 二人には何か通じるところがあるのだろうがそれを僕が知ることが出来る訳もなく。だけど鳴海さんが志津川さんにそう伝えるには、きっと何か大切な事だったりするんだろう。


「そうだ立花君、外にまだ使ってない雑巾を置いてるから、後でそれを取ってきて欲しいの」


 昼食も終わり、志津川さんが机の上を片づけ始めた。それに合わせて僕も鳴海さんに言われた通りに外へと向かう。


 すぐに戻るとそこには志津川さんの姿はなく、代わりに鳴海さんが僕を手招きするように階段の下で待っている。


「あれ、志津川さんは?」

「琴子には別の仕事をお願いしてる」

「そ、そうなんだ」

「それでなんだけど、立花君には二階の部屋を手伝って欲しいの」


 彼女に言われるままに階段を上ると、すぐに正面に大きな部屋が一つ現れた。


「掃除を手伝って欲しい部屋はここ」

「他の二つは?」

「他の二つは物置になってるの。中の道具は私たちだけじゃどうしようもないからここだけ手伝ってもらおうかと」

「あぁ、なるほど」


 学人さんの話やこれまでを考えるに、きっと物置にしまってあるのは鳴海さんのお祖父さんの私物だろう。


 彼の職業を考えるに画材やその他絵に必要な資料なんてのも中にはしまってあるのかもしれない。

 

 美術準備室の件も思い返すと、確かに僕ら三人だけだとどうしようもないと言ったところだろうか。


「さ、入って」


 鳴海さんに案内された一室は、このログハウス全体でも特に絵の具の匂いが強い部屋だった。長年放置されていてもなおまだそこに在り続ける記憶。


「ここは……」

「うん、ここは私のお爺ちゃんが使ってた部屋なんだ」


 鳴海さんは昔を懐かしむように一歩、また一歩と部屋の奥へと進んでいく。


 そう言えば昨日彼女はこの部屋には一歩も足を踏み入れていなかったはずだ。もしかして、ここに来るのは彼女にとって久しぶりのことなのだろうか。


「ねぇ、来て」


 部屋の奥はベランダへと続いていて、そこから鳴海さんが僕を手招きして見せる。


「今行くよ」


 誘われるままその場所へと足を向けると僕はすぐに息を呑むことになる。


「ここ……見覚えがある」


 知っている場所だった。


 遠くの方まで続く海岸線に、それに沿うように続く青々とした山。その奥には綺麗な海が広がっていて、それを全て見下ろすように、どこまでも澄んだ空が広がっている。


「廊下の絵の場所……」

「ちゃんと見てたんだ」

「うん、はじめてお邪魔した時から気になってて」

「そっか。あの絵はお爺ちゃんが私たちに遺した最後の絵なの」


 その声のあまりの切なさに、僕はぎゅっと胸が締め付けられるような思いだった。


「……好きなんだ」


 ぽつり、鳴海さんは静かにそう零した。


「昨日あの後、私もいろいろ考えたんだ。絵のこと、お爺ちゃんのこと、そして仁科君のこと」


 彼女が言葉を紡ぐのを、僕はただ隣で黙って聞いていた。


「立花君の言ってくれたことは嬉しかった。そして考えたんだ。何のために私が森沢に戻って来たのか。私はさ、やっぱり、忘れたくなんかない……」


 きっと彼女の胸中には、僕の知らない沢山の感情が渦巻いているはずだ。その気持ちをどうにかするなんてことは僕には到底できないけれど、だけどその気持ちに寄り添うことぐらいは今の僕でも出来るはずだ。


「ねぇ、立花君」

「……何かな」

「私が怖い時、すぐに助けに来てくれる?」


 僕は決めた。僕なりの答えで鳴海さんを支えていくと。


 もし彼女が暗闇で道を見失ってしまいそうになったら、その暗闇を照らす光になるんだと。だからその覚悟と共に、僕は鳴海さんの問いかけに力強く答える。


「もちろんだよ」


 それが僕、立花一樹たちばないつきの在り方であり、僕の決めた矜持だった。


「じゃあ改めて依頼があるんだけど」


 そう言うと鳴海さんは僕の方へと視線を向け、小さくその顔にいつ振りかの笑みを浮かべた。


「お願い、忘れ物を未来に持っていく方法を一緒に考えて欲しいの」


 それが空を忘れた天才少女、鳴海彩夏なるみさやかが決意した、ボランティア部へと持ち込んだ新しい依頼なのだった。

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