第51話 君の信じる僕を信じて
「し、志津川さん……っ!?」
僕の驚きなんて一切意に介さず、淡々と志津川さんは僕の隣を陣取った。
座り際、お風呂上がり特有の女の子の甘い香りが鼻腔をくすぐっていく。同じお風呂に入っているはずなのにどうして先ほどの鳴海さんとは全く違う香りがするんだろう。
ううむ、これは人類の解明すべき七不思議のひとつに違いない。
「……なにか余計なこと考えてます?」
「ま、全く」
怪訝そうな顔でこちらを見つめる志津川さん。どうやら彼女は僕の思考までは読み取れなかったらしく、何やら考え込むようなしぐさをこちらへと見せてくる。
いや、読み取られたら読み取られたで大問題なんですけどね。
「薫子さんに捕まってたんじゃ?」
「あ、あぁ……」
そういえば鳴海さんが僕のところに来た時にそんなことを言っていた。薫子さんはおしゃべりだ。一度捕まったらなかなか離してはくれないと思うけど……。
「ちょっと気になることがありましたので、なんとか言って抜け出してきたんです」
「気になること?」
「ええ。それに、薫子さんも私たちと同じ気持ちだという事が分かりましたので」
志津川さんが何を言いたいのかさっぱり分からない。
だけど彼女の表情からして、志津川さんの中で何か納得のいくような会話が薫子さんと繰り広げられたのは間違いなさそうだ。
「……立花君が決めたことであれば、あれでいいんだと思います」
ふと、志津川さんはお風呂上がりの綺麗な髪を僅かに鬱陶しそうにかきあげながら、僕へとそんな言葉を投げかけてきた。
「……どこから聞いてたの?」
そんな言葉をかけてくるあたり、僕と鳴海さんの会話は随分と志津川さんの耳に届いていたようだ。
そんな気配全く見せなかったくせに、こういうときだけ僕へのフォローを忘れてくれないあたり、それがなんだかちょっぴり恨めしかった。
「僕が全力で鳴海さんを助けるよ、辺りからでしょうか」
「そこそこ長く聞いてるじゃん」
「あはは……そこはなんというか、タイミングの妙という奴で」
志津川さんはカラカラと夏風に揺れる風鈴のように綺麗な声を震わせて笑った。
「また随分とカッコつけましたね」
そう言って揶揄うもんだから、僕の頬も思わず夏の熱気に負けないくらいに火照ってしまう。
「べ、別にそんなつもりじゃ……」
「あ~、もしかして照れちゃってます?」
「ち、ちがっ」
今更否定したところで何を言っても彼女にはお見通しだろう。
更には咄嗟に振り向いた先の志津川さんの視線のせいで、僕は開きかけた口を思わず閉じざるを得なかった。
こちらを見つめる志津川さんのその整った顔は、夏の夕暮れの陽ざしに照らされてとてつもなく綺麗だった。
優し気で、どこか儚げで、更には今にも空と一体になって消えてしまうんじゃないかと錯覚してしまうような。
そんな顔を忘れまいと、思わず僕の脳内がその光景を目に焼き付けることに注力したのだ。
「立花君、たまにカッコつける癖ありますよね」
「そ、そんなことあったかな」
「あの日の夜だってそうでした」
僕らにとっての”あの日の夜”というのは間違いなく志津川琴子が僕らの中で最強になった日の夜のことだ。
「私の涙は男の勲章、なんですよね?」
「そ、そんなこと言ったかなー」
「あー、とぼけても無駄ですよ。私、そう言うのはちゃんと覚えてるタチなんです」
そう言えば以前ふと思ったが、この人は漫画やアニメの台詞をやたら詳細に覚えている癖があった。ただ物覚えが良いだけだと思っていたけど、今のを思うにどうやらそういう印象的なセリフを脳裏にきちんと刻み込むタチらしい。
「あの時はただ感心するだけだったけど、今はその志津川さんの癖が恨めしいよ」
「いいじゃないですかぁ。カッコつけの人、私は好きですよ」
そう言って志津川さんは縁側に投げだしたすらりと伸びた足を数度その場でパタパタと揺らして見せる。
「仁科君もそうだったね」
「あの人は無自覚でそれをやるから良くないんですっ!」
「それは……ちょっとわかるかも」
ぷいと頬を膨らませる志津川さん。確かに彼女のご立腹はごもっともだ。
仁科君は本当に平然とカッコいい言葉やカッコいい立ち振る舞いをやってのけるからなぁ。更にはそれがほとんど無自覚ときたものだ。
それに振り回されてきたのだろう志津川さんの怒りも納得だ。
「でも、立花君は違いますよね?」
「そ、それは……」
「あなたのそれは自らを奮い立たせる行為であり、そしてまた誰かを思っての優しさです」
「……自分でも分かってやってるつもりだけど、改めてしっかり言葉にされると恥ずかしいな」
彼女の言葉は全くもってその通りだった。
僕のカッコつけたセリフや振る舞いはいつだって自分への発破であり、そして誰かを元気づけるためのおまじないでもあった。
「だから、今回もそれでいいんだと思います」
「……鳴海さんの事?」
「ええ」
不意に僕の右肩に見知らぬ暖かさが寄り添ってきた。
「し、志津川さん!?」
「いやぁ、今日はたくさん体を動かしましたからね、おいしいご飯もいっぱい食べて、お風呂にも入って、気が抜けたら疲れちゃいました」
「で、でも……」
僕に寄り掛かった志津川さんは、照れくさそうに一つ笑った。
こんな状況もし学園の誰かに見られでもしたら、夏休み明けの始業式の日に滝田市内に小さな血の雨が降ってしまう事だろう。
「いいじゃないですか、誰も見てませんよ。それに……」
状況に硬直してしまっている僕を気にも留めることなく、隣からは追撃の上目遣いが飛んでくる。
「立花君はこんな女の子を振りほどいてしまうような甲斐性無しではないでしょう?」
そんな風にくぎを刺されてしまうと、僕に取れる選択肢はあの日の夜のようにただ彼女の為すがままにされることしか残されていない。
「ど、どうして急にこんなことを……?」
「ん~、羨ましかったからでしょうか」
「羨ましい?」
緊張感に潰されそうな僕と心底リラックスしきっている顔の志津川さん。
正反対の二人が並んでいる状況で、だけどなぜか会話だけは淡々と進んでいく。
「あんな風に言ってもらえる彩夏さんが、ちょっとだけ羨ましくなっちゃったのかもしれませんね」
「なんなのそれ」
「えへへ……私もちょっと思わせぶりなことを言いたくなっただけです」
そう言って志津川さんは小さく僕へと微笑んだ。
(全く……この人は本当にズルい人だ)
志津川さんと話すたびに、僕は彼女のことをそう評することになる。憧れの負けヒロインと同じように前を進むことを選び取った彼女には、もう自らを縛る枷は存在しない。
その枷から解き放たれた彼女の自由さに僕は時折振り回される。
でも、それもまた悪くないなと毎度思ってしまう自分もまた存在した。
「立花君は立花君のままで、自分の本当に貫き通したい想いを貫いてください」
先ほどの態度は何処へ行ったのやら。諭すようなその声は、どこまでも静かに僕の胸に沁み込んでいった。
「彩夏さんのことで迷っているんでしょう、自分がこれからやることが本当に正しいのかどうか」
「それは……」
確かにその通りだ。あれだけの大言を口にしておいてもなお、僕はまだ鳴海さんへの言葉が本当に正しかったのか迷っている。
「大丈夫ですよ」
「どうしてそんなことを言えるの?」
なぜここまで志津川さんは確信をもって大丈夫と口にできるのだろう。
「だって私は信じていますから。私のことを救ってくれた立花君のことを」
あっさりとそう言ってのける志津川さんに、僕は思わずハッとさせられる。そうだ、僕は信じたじゃないか。部長の言葉を、そして何より隣で微笑む天使の言葉を。
「だから――大丈夫です。だって、立花君は優しいですから」
いつしか僕はこんなことを思った。
志津川さんの言葉は僕の指標だ。もし僕が本当に間違ったことをしたときは必ず彼女がそれを間違っていると教えてくれるはず。
主人公だとか脇役だとか関係ない。志津川さんが信じてくれた僕のことを、僕はただ信じるしかない。
「ありがとう、志津川さん」
「どういたしまして、立花君」
空を忘れた天才少女。その空をもう一度取り戻すために、こうして僕はまた一つ決意を新たにするのである。
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