第48話 彼女達の距離

「ひゃっ」


 ちゃぷん、と天井から落ちた雫に美少女が小さく声を上げるのを、暖かい湯船の中で鳴海彩夏なるみさやかはぼんやりと見つめていた。


「志津川さん、ほんとーにスタイル良いね」


 今目の前で体を洗っている美少女はまごうことなき彼女が通う桑倉くわくら学園のアイドルだ。


 すらりと伸びた手足は上等な絹のように透き通り、肩甲骨まで伸びた髪は水をふんだんに含んでいても柔らかさを隠せていない。


 日頃男子が彼女のことを話題にするのも、目の前にある造形美を見れば納得だ。


「そ、そんなこと……ありますよ?」

「自覚してるんだ」


 そりゃあれだけ日頃からチヤホヤされていれば自らの容姿が優れていることも気づくだろう。それに、本人がどれだけ普段から気を遣っているのかも体の洗い方ひとつとってみても手に取るように分かる。


 志津川琴子しづかわことこという女の子がなぜこれほど魅力的なのか。


 自分にはないものをたくさん持っている彼女が、彩夏はちょっとだけ羨ましかった。


「ねぇ……志津川さん」


 そんな彼女を眺めながら、彩夏は湯船の縁へと顔を落とす。ひんやりとしたそれが火照った頬を程よく冷ましてくれている。


「ん、どうしたんです?」


 背中越しにこちらへと視線を寄こす彼女。泡で体をこれでもかというほど包みながら、キョトンとした顔でこちらを見つめている。


「さっき言ってた話って……今でも大丈夫な奴?」


 彩夏が口にしたのは、先ほどのログハウスでの出来事のことだった。


「先ほど私がお声掛けさせてもらった事です?」

「うん」


 「晩御飯の後にこっそりお話出来ませんか?」。一樹がいない瞬間を見計らって、琴子はそんなことを彩夏へと告げていた。


 彩夏自身一体何についての話なのか見当もつかない。だけど何か大切ことであるような気がしてそれが彩夏の心に引っかかっていた。


「あぁ……そうですね」


 琴子が捻った取っ手から、キュッと乾いた音が一つ鳴った。直後シャワーから流れ出した暖かい水が彼女の体を覆う泡を洗い流していく。


「横、失礼いたしますね」


 体を洗い終わった琴子はそのままヒノキの湯船へ。磯山家の浴槽は大きい。女子高生二人が収まっても、その空間にはまだまだ余裕があった。


「ふぅ……動いた体に暖かいお風呂が染みますねぇ」

「おじさん臭い事言うね」

「お風呂が気持ちいいことに年齢は関係ありませんよぅ」

「それは……同意だけど」


 ちゃぷん、と再び天井から零れた雫が、今度は二人の間に漂う水面を揺らした。


「鳴海さんは好きなんですか?」


 雫の落ちてきた先を見つめながら、琴子は一つ大きく息を吐いた。


 色気すら感じるその仕草に同性の彩夏ですらドキリとさせられる。


「す、好きって……何が?」

「今更隠す必要はないのでは? 仁科にしな君のことですよ」


 あっけらかんと言ってのける琴子に思わず面食らった。


(そ、そこまで直接言う……?)


 困惑する彩夏だが、聞いてしまった言葉はもう取り消すことは出来ない。


「そ、それは……」


 女二人。ちゃぷりと揺れる水面の音だけが二人の空間を包み込む。


 逃げないと決めた。向き合おうと思った。そのために自分はこの森沢もりさわの地に帰ってきたのだ。今更同級生一人に何をビビっているんだ。


 水面下で、彩夏は小さく己の拳を握りしめた。


「うん……好きだったよ」

「だった……?」


 気になるその物言いに琴子の表情にも思わず疑念の色が浮かぶ。


「正直……分かんないんだよ。今も仁科君のことが好きなのか」


 搾るようなその声色に、彩夏自身も驚いた。


 その一言を音にするのに、自分はこんなにも苦しんでいるんだ。


「仁科君が粟瀬あわせさんと付き合うようにってお願いしたのは仁科君のためを思ってのことだったんだ」


 「粟瀬柚子あわせゆずの恋を、実らせて欲しい」。あの日、ボランティア部にそんな依頼を持ち込んだのは、彼の気持ちを知ったうえで自分の気持ちに決着をつけるためだった。


 だけど今の自分はどうだ。


「忘れようと思った。彼はだってもう粟瀬さんと幸せに過ごしているから」


 消したい想いが胸にこびりついて消えない。忘れたいはずの想いと、いったい自分はどう向き合うべきか分からない。


「忘れられないんだ。私に優しくしてくれたあの顔が、あの目が、あの声がっ! 不意に……不意に脳裏を過るんだ……。好きだったんだ……。私は仁科君がっ」


 そこまで言いかけたところで、彩夏の視線が不意に真っ暗闇に包まれた。


 直後に感じたのは湯船の湯よりもさらに暖かい、懐かしい暖かさだった。


「分かりますよ。恋心は残酷です。でも、その感情は決してあなたを傷つけるためだけのものではありません」


 どこまでも優しい声だった。


 素肌から感じる志津川琴子の温もりが、全身を通して彩夏の芯に沁み込んでいくようだった。


「私も……そうでした」


 零れる声。見上げた琴子の表情は、まるで昔を懐かしむような顔色だった。


「志津川さんも?」

「好きでしたよ、5年間。私は、仁科君のことがずっと好きでした」


(やっぱりそうだったんだ)


 寄り添うような琴子の今までの語り口の理由がようやく分かった気がした。


「まぁ、私の場合はお別れをちゃんと言えましたけどね」


 どこか清々しさすら覚えるその喋り口に、彩夏はある種の羨ましさを覚えてしまう。私はこんな風に笑えるだろうか。


 そんな思いがじわりと彩夏の心に湧き上がる。


「ねえ、志津川さんは……その気持ちをどうやって乗り越えたの?」

「私ですか……?」


 彩夏からそんな問いかけが来るとは思っていなかった琴子は、思わずその問いに答えを詰まらせてしまう。


 彩夏の黒真珠のような綺麗な瞳を見つめながら、自らのこれまでに思いを馳せる。


 しばらくして、琴子は自分がここまで進んでこれた一番の理由をきっかけの名前を口にする。


「立花君……」

「た、立花君?」

「ええ、立花君です」


 彼が居たから、きっと志津川琴子はここまで来れた。


 5年抱き続けた初恋にお別れを告げ、新しい自分になれるきっかけとなった存在。それは間違いなく立花一樹たちばないつきという少年だ。


「言いたいことがあるって言いましたよね?」

「え、あ、うん……私もそれを聞きたかったんだ」

「立花君を頼ってください。もし今鳴海さんが困っているのなら、彼が間違いなく力になってくれますから」


 確信をもって琴子は言う。


「ボランティア部は、いつだって困っている人のお力になりますよ!」


 自分もその一員だ、と言わんばかりに琴子はきゅっと胸の前で手のひらをぎゅっと握って見せた。


「ふふっ……まぁ、志津川さんもお手伝いに来てくれたしね」

「えへへ……」


 広い湯船。しかし彩夏はそっと琴子に寄り添うように移動すると、その綺麗な肩にそっと、自らの頭を乗っけるように寄り掛かる。


「ど、どうしたんです!?」

「琴子って、呼んでいい?」

「えあ、あぁ、はいっ! では私も……」


 コホン、と小さく咳ばらいをすると、隣に寄り掛かる友人へと、琴子は小さく声をかけた。


「彩夏さん」

「……彩夏でいいのに」


 同じ男の子を好きだった同士。ただそれだけの関係だった二人の美少女の距離が、暖かい湯船の中でちょっとだけ縮まった。


 その距離を嬉しく思いつつ、彩夏はこれから自らが何をすべきかに思いを馳せるのだった。

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