第47話 天才少女の過去

 夕涼みの海風に混じって、家の奥から女の子たちの楽しげな声が遠巻きに聞こえてきた。


「女の子同士のお風呂ってのも羨ましいものだねぇ」


 そう言いながら学人がくとさんは僅かに残った缶ビールをぐいと飲み干した。


「そう思うだろう、立花君?」

「はは……僕はなんて答えればいいんですかねぇそれ」


 目上の人の問いかけに否を出す訳にもいかず、かといって思い切りそれを肯定しても下心満載の男になってしまう。


 まぁ、気になるか気にならないかと言われれば気になる。具体的にはあの二人がどんな話をしているか、だけど。


 同じ人を好きになった女の子同士、その会話の内容は気になるところだ。


 今回の『依頼』に志津川さんを誘ったのもそれが一番の理由だった。二人の会話の中で鳴海さんが何かきっかけを掴んでくれるんじゃないか、そう僕が期待したからだった。


 僕が言葉に出来ない何か。それを志津川さんなら伝えられるんじゃないか。同じ『負けヒロイン』同士、彼女達にしか分からない心がきっとどこかにあるはずだった。


「まぁそれはおいといて、だ」

「鳴海さんの過去……ですよね?」

「そうだねぇ」


 そう答える学人さんの声色は、真剣ながらもどこか優し気だった。大切な姪を慈しむような、そんな愛情がその横顔には確かに存在した。


「まず初めにこれだけは理解しておいてほしいんだけど、僕はさやちゃんの心の内まではっきりと理解してるわけじゃない。あくまでも僕が話せるのは彼女の置かれてきた境遇だけだ」

「それは……承知してるつもりです」

「ならいいんだ。さて、そもそも僕と彼女の関係だけど、姪と叔父というのは分かるかい?」

「それはもちろん」


 鳴海さんは薫子さんのことを叔母さんと呼んでいた。つまり鳴海さんにとっての薫子さんは……あれ、どっちだ。


「鳴海さんと血が繋がっているのって、薫子さんと学人さんのどちらなんですか?」


 僕が抱いた疑問はそういうことになる。


 叔母さんという表現だけじゃどっちがどっちか分からない。


「あぁ、それは薫子の方さ。彼女は涼香すずかさんの妹に当たる」

「涼香さん……それが」


 ここに来て新しい名前が出てきた。恐らく鳴海さんの実の母の名前だろう。


鳴海涼香なるみすずか。それがさやちゃんの母親の名前だ」

「鳴海……涼香……さん」

「あぁ。彼女が亡くなってもう3年が経つね」

「亡くなっ、えっ!?」


 思わず声が漏れてしまう。学人さんが口にしたのは僕の思ってもいなかったことだったからだ。


 鳴海さんの母親は既に三年も前に亡くなっている。そんな素振りを彼女が見せたことは一度もない。


「不幸な事故だったよ。さやちゃんのご両親、涼香さんと洋文ひろふみさんは車の交通事故で亡くなったんだ」

「そんな……」

「幸いさやちゃんは学校に行ってて無事だったけどね。でもご両親を亡くした後の彼女の憔悴しきった姿といったら……今思い出してもあまりにも可愛そうだったよ」


 知らなかった。彼女にそんな過去があったなんて。


「今は滝田の祖父母の下で暮らしているけれど、学校関連や面倒な手続きは薫子や僕が手を貸しているんだ」

「もしかして、その事故が鳴海さんが絵を描かなくなった理由ですか?」


 空を忘れた天才少女。鳴海彩夏なるみさやかという少女を世間はそう呼んでいる。


 若くして圧倒的な才能を持ちながら今はそれを捨ててしまった。彼女の空に魅了された多くの人が、また再び彼女が空を描くことを望んでいる。


「……それは僕の口からは言えないよ」


 僕の問いかけに学人さんは濁すように小さく笑った。


 恐らく本人も確証があるのだろう。しかしあくまでもそれは想像に過ぎない。


 勝手に他人の境遇に同情して、その心境まで勝手に慮ろうとするのはあまりにも身勝手が過ぎる。この話を始める際に彼が僕へと釘を刺したのはそういう感情を咎めるためだったのだろう。


「その理由はやっぱりさやちゃん本人から話すべきだよ」

「すみません……」

「いや、謝るようなことじゃないさ。誰かの感情に寄り添いたいと思うのは恥ずべきことじゃない。だけどそこから行動に移すには何よりも相手のことを考えるべきだというだけの話だよ」

「……そうですね」


 僕の返答に小さく口元を緩めると、学人さんは一つ大きくビールを煽った。


「そういえば昼間はログハウスの掃除に行ってるんだって?」

「はい、鳴海さんにお願いされまして」

「へぇ……さやちゃんがね」


 僕は鳴海さんから今回の依頼を受けた話と、普段僕がボランティア部でどんなことをしているのかを学人さんへと簡潔に話した。


「なるほど、立花君は普段からこんなことをしてるのか」

「僕に出来る範囲のこと、という注釈が付きますけどね」

「良いことだと思うよ。同年代だからお願い出来る事もあるだろうしね」


 傍から見ればおかしな集団。身近に居れば不審者の集まり。だけど学人さんはそんなボランティア部にも随分と肯定的だった。


「立花君は瀬名寛治せなかんじという画家を知っているかい?」

「すみません……あまりそういう知識には疎くて」

「ははっ、気にすることじゃないさ。絵を扱う人間でも早々知っているような名前じゃない。だけど、僕にとってはあれほど素敵な空を描く人を知らない。さやちゃんの祖父に当たる人だ」


 瀬名寛治。きっと学人さんにとっては憧れの人だったのだろう。どこかキラキラと輝く彼の目からは確かにそれが感じ取れた。そしてそれはきっと鳴海さんも同じだ。


「今も存命なのですか?」

「いや、もうとっくの昔に亡くなっているよ。さやちゃんがまだ小さい頃だった」

「そうだったんですね……」


 そして僕はある仮定に思い至る。


 ログハウスの話からどうして鳴海さんの祖父の話に移行したのか。


 そして昼間に感じたあの感覚。どうしてあの場所を僕は美術準備室に似ていると思ったのか。


 そしてその二つから導かれる答え。


「もしかして、あのログハウスは元は鳴海さんのおじいさんの物だったんですか?」

「へぇ」


 僅かに驚いた顔を浮かべると、学人さんは僕の疑問の答え合わせと言わんばかりに小さく両手を打った。


「あそこはお義父さんが絵を描くときに使っていたアトリエさ」

「おじいさんのアトリエ……」


 ツンと鼻を付く油の匂い。あれは寛治さんが使っていた絵の具の匂いだったのか。それに倉庫に眠っていた使用用途が分からない用具。あれもきっと絵を描く際に使う道具だったりするんだろう。


 あの場所は鳴海さんにとってまさに始まりの場所だったんだ。


 天才少女が天才と呼ばれる所以。それがあの場所には眠っていた。


 それじゃあ今度は別の疑問が湧いてくる。


「今の所有者は薫子さんだって聞きました」

「あぁ、そうだね。便宜上は彼女が管理していることになっている」

「それじゃあどうして今更鳴海さんはあの場所を掃除しようだなんて言いだしたんでしょう……?」


 しかしその疑問は直後聞こえてきた別の声に遮られる。


「学人おじさん」


 不意に後ろから声が聞こえる。咄嗟にそちらを振り向けば、そこにはお風呂上がりの鳴海さんが何やら神妙な面持ちで立っていた。


「おぉ、さやちゃん。どうしたの?」

「叔母さんがお風呂空いたら入りなさいって」

「あぁ分かった」


 お風呂上がりの鳴海さんは独特の雰囲気を漂わせていた。しっとりと濡れた髪に僅かに上気した頬。なんというか、ただただ美人だ。


「それと……」


 鳴海さんの綺麗な瞳と目が合った。やばい、魅入ってたのがバレただろうか。


「立花君、借りていい?」

「へっ、僕っ!?」


 想像もしてなかった言葉に思わず僕の声も跳ね上がる。


「あぁ、良いよ。若い子同士で話したいこともあるだろう」


 突然のことにテンパる僕。しかしそんな僕を残して、学人さんは笑いながらどこかへ姿を消す。


「か、借りるってどういうこと?」

「話しておきたいことがあるんだ」


 夏の太陽は長い。その言葉通り水平線の向こうではまだわずかに太陽が頭を覗かせている。そんな夕日に照らされた鳴海さんの心の奥を、僕は果たして覗けるのだろうか。


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