第46話 磯山家の夜
「今日は腕によりをかけて作ったからねっ!」
部屋の中央でどや顔で腕組みをして見せる薫子さんを、僕と志津川さんはただ唖然と見つめていた。
時刻は6時を少し回ったところ。現在は磯山家の夕食の時間だ。
あの後、ログハウスから戻ってきた僕は疲労からか宛がわれた部屋ですっかり寝てしまったらしく、そんな僕を志津川さんが起こしに来てくれたのが15分ほど前のことだ。
「立花君っ! ご飯ですってご飯っ!」そう言って襖の隙間から僕を見つめる志津川さんの宝石のように煌めく目は記憶に新しい。
廊下に出ると既に家の奥からは胃をきゅっと締め付けるようなおいしそうな匂いが漂っており、その香りに誘われるままにリビングへと足を運んで今に至ると言う訳である。
「はわわぁ……」
机一杯に広がる料理に志津川さんは釘付けだ。
薫子さんの言葉通りよほど気合を入れて作ってくれたのだろう。ほかほかの白ご飯にみずみずしい生野菜のサラダ、更には海藻の小鉢。
そんな中でもひと際目を惹くのが、表面にまるで芸術品のような焼目を付けた特大の焼き魚だ。
魚の種類までは詳しくないけど、パリパリに焼けた綺麗な焼目とその隙間からジワリと滲み出る脂が僕の食欲をこれでもかというほど刺激してくる。
「皆に美味しいもの食べさせたいって、旦那も張り切っちゃってね」
そう言うと、テーブルの上座に座った男性が照れくさそうに一つ小さくはにかんだ。
「ははっ……さやちゃんとそのお友達だからね。そりゃ気合も入るってもんさ」
優しそうに垂れる目をさらに細めながら、薫子さんの旦那さんこと
彼とは既にログハウスを戻ってきてすぐに顔を見合わせており、その際に僕も志津川さんも軽い自己紹介とあいさつを済ませていた。
口数は薫子さんと比べると大分少ないが、人の良さそうな優し気な男の人で、僕はすぐに彼のことが気に入っていた。
「これ、わざわざ買ってきていただいたんですか!?」
目の前に広がる立派な料理に思わず志津川さんも驚いてばかりだ。
「ん~ん、旦那が貰ってきてくれたのよぉ」
「も、貰って……?」
「あぁ、僕は漁港に勤めているからね」
聞けば学人さんは森沢で一番大きな漁港で普段経理を担当しているらしい。そのため漁師さんにも顔が利くらしく、今日のことを話したら目の前のこいつを譲ってもらったのだそうだ。
「だから気にせず遠慮なく食べてくれ。その方が釣ったほうも貰ったほうも嬉しいってもんさ」
そんな学人さんの言葉を皮切りに僕らは卓上の焼き魚と次々と箸を伸ばしていく。
「おいひぃ~」
ほっぺをこれでもかと膨らませて満面の笑みを浮かべる志津川さん。そんな彼女につられて僕も一口含むと笑顔の意味を思い知らされる。
ほろほろと崩れる身はけっしてパサパサしている訳ではなく、その身がしっかりと柔らかい証拠だ。更には噛みしめた瞬間にギュッと溢れる脂には魚の旨味がこれでもかと詰まっている。
そのまま真っ白なご飯をかき込むと、日本人がなぜこんなに魚を愛するのか、その理由がこれでもかというほど理解できた。
「うっまっ」
ご飯の熱気を口の隙間から溢しつつ、それでもそう口にせざるを得ないそれが次々と卓上の食事を口に運ばせる。
箸休めのサラダは新鮮そのもので、噛んだ瞬間にパリパリと景気のいい音を立てる。小鉢の海藻もポン酢でさっぱり味付けがされていて、小さく刻まれたタコが食感に彩りをくれていた。
お味噌汁もしっかり香る出汁の中にあおさの風味が混じってまるで目の前に海が広がっている様だった。
「……ごちそうさまでした」
「ごちそうさまでした、薫子さんっ!」
僕も志津川さんも夢中で食事に手を伸ばしていたせいか、食事の感想以外の会話は一切なかった。
賑やかに言葉が飛び交う食卓もいいけれど、ただ無心に美味しいものに向き合うこんな時間もまた嬉しい。
「じゃあ後片付けは済ませておくから、先にお風呂に入っちゃいなさい」
空いた食器をシンクへと運びながら薫子さんは僕らへそう告げる。
「あっと……」
後は入浴を済ませて寝るだけだけど、そうなると困るのはお風呂の順番だ。
流石に女の子の後に入る訳にもいかないだろう。ちらと学人さんへと視線を移すと、僕の意図を察してくれたのか彼の方から僕へと声をかけてくれた。
「それならせっかくだ、立花君に先に入ってもらいなさい」
「ありがとうございます、そうさせてもらいます」
磯山家は浴室もまた立派だった。大きめのヒノキの湯船は大の大人が3人は優に肩まで浸かれそうだ。
浴室独特のお湯の匂いに仄かに混じるヒノキの匂いが僕の疲れた体をそっと労ってくれるようだった。
「……明日は聞けるのかなぁ」
ポチャン、と天井から湯船へ落ちる水滴を眺めていると、ふとそんな独り言が僕の口から漏れた。
鳴海さんとログハウス。
そのただならぬ縁の正体を僕はまだ知らない。鳴海さんはあの時そう言ってくれたけど、僕に正直に話してくれる保証もなかった。
踏み込みすぎてるんだろうか。そう自分の行いを思い返してみるものの、僕に引き際を教えてくれるものは世界中のどこを探しても見つかりそうにない。
「ふぅ……考えすぎても答えは出ないか」
このまま考え事をしててのぼせてしまうのも情けない。
適当なところで切り上げて湯から上がると、リビングでは薫子さんが食後のデザートを切り分けてくれていた。
「一樹君、スイカ好き?」
「え、あ、好きですけど……」
「良かった。じゃあこれ、学人さんに持って行ってくれないかしら?」
そう言って薫子さんは大きく切られたスイカが二切れ乗った皿を僕へと手渡してくる。
「いいですけど、学人さんはどちらに?」
「多分縁側に居ると思うわ」
薫子さんに言われるままに縁側へと足を向けると、そこでは一人涼みながら缶ビールに口を付けている学人さんが居た。
「やぁ、立花君」
「薫子さんから、スイカを持っていくようにってお願いされまして」
「お、スイカかぁ」
そう言うと学人さんはビールを置いて僕を隣に座るようにと促した。
男二人、縁側を吹き抜ける風が風呂上がりの体に心地よかった。
「なんでこんなところで晩酌を?」
「あはは……女の子が姦しいところを邪魔するのはなんだか申し訳なくてねぇ」
学人さんは小さく肩を竦めると皿の上のスイカに手を伸ばす。
そう言えば僕がお風呂に入る直前まで、志津川さんと薫子さんがリビングでは騒がしくしてたっけな。
「お、美味いねぇ……立花君も食いなよ」
つられて口を付けたスイカは甘くておいしかった。種があるのが苦手で普段はあまり食べないけれど、縁側で食べるというシチュエーションも相まって僕の知っているスイカの何倍以上もそのスイカは美味しく感じられた。
「……美味しい」
「そりゃよかった。このスイカも森沢産だよ。魚だけじゃなくて野菜も名産なんだ」
「へぇ……全く知りませんでした」
「だろうね。名産と行っても全国的に有名なものじゃないからねぇ」
そういう学人さんはどこか寂しそうだった。そりゃ漁業関係者としては地元の魚介類が有名になって欲しいというのは当然の願いだろう。
「これで今日から立花君も森沢の良さを知れたわけだ」
「ですね」
「だけど……」
ふと、学人さんの言葉に僅かに影が落ちたのが分かった。
「物事を知るというのは何も明るい事だけじゃない。特に、人を知るという事はその最たるものだ」
ぐいと缶ビールを煽ると、学人さんは一つ大きな溜息を吐いた。
「君は知りたがっているんじゃないか……?」
何を、と今更問えるような状況じゃなかった。
真っすぐに僕を見つめる目は、確かに僕の心に抱いた疑念を射貫くのには十分すぎるほどに鋭かった。
「僕は……知りたいです」
「知ってどうするんだい? きっと君の知りたがっているそれは、さやちゃんにとっては触れて欲しくないものかもしれない」
静寂が辺りを包み込んだ。そんな空間を切り裂く様に柔らかな海風と遠くに聞こえる車の音が僕らの間を流れていく。
「それでも、です」
だけど、今更そんな沈黙に飲まれる僕ではありたくない。
そんな思いで吐いた言葉に、まるで試すように学人さんの言葉が重なる。
「見たところ君はさやちゃんの彼氏と言う訳でもないだろう。どうしてそこまであの子に手を貸すんだい?」
学人さんが問うたのは僕の覚悟だった。
一人の女の子の人生に関わる覚悟。ならば僕はその問いかけに一体どんな言葉で答えればいいんだろう。
言いたいことがいっぱいあった。まとめたい想いがいっぱいあった。だけど、最終的に僕の口を付いたのはあまりにも気の抜けた答えだったのかもしれない。
「可愛い女の子に心から笑っていて欲しいと願うのは、間違った事でしょうか?」
僕の回答なんて全く予想していなかったのだろう。一瞬驚いた顔を浮かべた学人さんは、しかし次の瞬間その顔に似合わぬ大声で笑った。
「あっはっはっ! 面白いね立花君っ! 気に入ったよ。なるほど確かに……それは男の子にとって何より大切なことだ」
「そ、そう言ってもらえて何よりです」
自分でも何言ってるんだこいつといった状態だったがどうやら僕の答えは気に入ってもらえたらしい。
「うんうん……。一人の男として、僕は立花君を応援するよ」
「あ、ありがとうございます……」
「じゃあ、そんな君に話しておかなければいけないことがあるね」
瞬間、学人さんの声色は真剣なものに戻る。
「は、話ですか?」
「あぁ、そうだよ。これから話すのはさやちゃんのこれまでの話さ」
真夏のとある夕涼み。今まで輪郭すら見せてくれなかったしだれ柳の下の幽霊に僕はようやくお目にかかれる時がやって来たようだった。
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