第44話 転がる先を知らない真珠
僅かな罪悪感を感じながら再び部屋へと戻ると、不意に鼻先を油の匂いが漂った。
先ほどから数度感じる独特の香り。それが
「ほんとはボランティア部を巻き込むつもりなんてなかったんだけど……」
昔から人付き合いは苦手な方だった。
あまり感情を表に出すのが得意ではない。更には彼女が持つ独特の雰囲気がより一層同年代を彩夏から遠ざけた。
その要因の一つに彼女の趣味とも人生ともいえる『絵』があったことは違いない。
だからそんな彩夏が今回の件について他人を巻き込むなんてことは彼女自身全く想定していないことだった。
「立花君は優しい……か」
桑倉学園一の美少女と言われる
彼らの交友を知ったのは全くの偶然だった。
たまたま一緒に居るところをとあるファミレスで見かけ、それから都度仲良く話しているところを見かけるようになった。
琴子にボランティア部を紹介してくれと頼んだのも、そんな二人のやり取りに何やら意味ありげな関係を察したが故だった。
「つ、付き合ったり……してるのかな」
部屋の中に身を隠しながらもこっそりと二人の会話を盗み聞きする。悪いとは分かっていながらも年相応の好奇心が彩夏にその行為を止めさせなかった。
そしてそんな会話の中でぽろりと琴子が溢したのが、先ほどの「立花君は優しい」というフレーズだ。
彼女自身それは身をもって感じていたことだった。
今回のことだってほぼ二つ返事で了承してくれた。ボランティア部に所属していることもあるだろうが、そもそもそんな部活で人助けをしている時点で立花一樹という男は優しい男だ。
ボランティア部の悪い噂は多聞に及んでいるが、それと同時に彼らを好ましく思う声があるのも学園生活を送る中で彩夏の耳には届いている。
最初は半信半疑だったが、いざこうして付き合ってみると本当に助けになる存在だった。
このログハウスに再び足を踏み入れようと思ったのも、あの日一樹が声をかけてくれたことがきっかけだという事を彩夏自身よく分かっている。
だけど、きっかけはあれどいまだに方向性は見えない。果たして自分はこの場所に再び訪れて一体何がしたいのだろう。
ログハウスに着いてから、いや、正確には森沢という土地に帰って来てから、彩夏の脳裏には常にそのことがこびりついて消えないでいた。
「私はどうすればいいのかな……」
不意に屋内を見渡すと、木製の壁に妙な切込みが入っているのが見て取れた。
「これ……」
近づいて手を伸ばすと、床と平行に刻まれた数本のそれには横に沿えるように日付が鉛筆で刻まれている。
「……懐かしいな」
それは彩夏がここに訪れる度に祖父が書いてくれたものだった。
壁に背をつけるとちょうど頭の先と同じ高さの場所に祖父がデザインナイフで線を刻む。「おお、去年よりも随分と大きくなったなぁ」なんて言いながら顔にしわを作る祖父の顔が今でも昨日のことのように思い出せた。
刻まれた線を手でなぞる。懐かしさの中に不意に混じるのは、胸いっぱいの寂しさだった。
「どうすればいいのかな……お爺ちゃんっ……」
幼い彼女をいつも慰めていたはずの祖父はもう随分と前にこの世を去ってしまっている。
久しぶりに求めたあの暖かさをくれる存在は、もう彼女へと笑いかけてくれることはない。
「掃除……しなきゃな」
床の掃き掃除は終わったものの、埃は床だけじゃなく屋内のあらゆる場所に散らばっている。
先ほど彩夏が触った壁も当然だ。指先に残った埃を拭いながら、彩夏は雑巾を手に取った。
「それでですね、仁科君に断られた柚子ちゃんが顔をぐしゃぐしゃにしながら私に電話をかけてきて……」
「仁科君断ったんだ」
「ほんとですよ。なんで二人の惚気話を終わらない課題の傍ら聞かされなきゃいけないんですかね」
掃除中という事もあり夏場の屋内は風通しを良くしてある。不意に懐かしさから現実に戻ると、外で話す二人の声が彩夏の耳によく届いた。
「仁科君か……」
琴子が彩夏の想い人であった
彼が琴子、そして奏佑の幼馴染である
優しくてカッコよくて勉強も出来て気も利く男。一樹もそう評した男のことを彩夏は非常に好ましく思っている。
それは今でも変わっていない。
彩夏がボランティア部に依頼を持ち込んで、奏佑と柚子が付き合うようになってからも、彩夏が抱く思いは微塵も変化していない。
しかし彼女はそのことをひた隠しにし続けている。
この想いは叶ってはいけない想いだから。
仁科奏佑の本当の思いを捻じ曲げてまで、自分に振り向いて欲しくない。彼への精いっぱいの優しさは、何よりも彩夏にとって残酷な選択だった。
「簡単に忘れられたら、こんなに苦しい思いをしなくても済むのにな」
そんな呟きも外で話す楽しそうな二人には届かない。
そんな時だった。不意に部屋の扉が開かれる。突然のことに振り向くと、そこではさきほどまで部屋の外で話していたはずの一樹と琴子がこちらを覗いていた。
咄嗟に表情を取り繕うと彩夏は二人へと声をかける。
「どうしたの?」
「あ、いや、客間の掃除が終わったから次はどうしたらいいかなって」
そうか、向こうは二人がかりか。部屋もこちらより一回り小さいため終わるのが早いのも当然だ。
「それならちょっと待っててもらっていい? もしよかったらゴミとかまとめてくれると嬉しいな。汚れちゃった雑巾はそのまま捨てちゃうから、それも一緒に」
「分かった」
どうだろう。自分は普段通り話せていただろうか。扉から離れていく二人を見ながら彩夏は咄嗟に先ほどのやり取りを思い返す。
心の中のもやもやが二人に見抜かれてしまっていないだろうか。そう思っているとまた部屋の扉が小さく開く。
「な、なにかな立花君!」
しかしそこにいたのは一樹ではなく、先ほどまで一樹と一緒にいたはずの琴子だった。
「あれ、志津川さんだけ?」
「はい、立花君にはゴミを外に持って行ってもらいました」
「な、なるほど……。それで志津川さんはなにか聞きそびれたことがあった?」
そう言うと琴子は僅かに考え込むような仕草を見せる。
「聞きそびれたことというよりも、言いそびれたことでしょうか」
「……言いそびれたこと?」
いったい何のことだろうか。いくら考えたところで彩夏はその答えに辿り着けそうにない。
「ええ、晩御飯の後にこっそりお話出来ませんか? というご連絡です」
そう言うと彼女は後ろを一つ気にする。
「立花君にも聞かれずに、二人だけで」
いったいどんな話だろうか。考えても検討が付かない。
しかしこれもいい機会だ。そう思った彩夏は一言「分かった」と返す。
「ありがとうございます」
「えっと、こちらこそ……?」
ひとつ微笑みながら扉の向こうへと消えてく琴子を見ながら思う。
「志津川さんも、仁科君のことが好きだったのかな……」
しかしその問いに答えてくれるものは何もなく、彩夏はただ誰も居ない一室で胸に燻る小さな痛みを抱え込むのみだった。
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