第42話 依頼開始とおいしい昼食

 屋内に足を踏み入れた僕をまず待っていたのはツンと鼻を付く油のような臭いだった。


 玄関から進むと正面にはいたって普通のリビング。木製の机と椅子が3つ。部屋の脇には備え付けのキッチンが見て取れる。


 木を主体とした建築は風通しも良くて蒸し暑いこの時期にはぴったりだ。


 しかし先ほど感じた油のような臭いの正体は見たところどこにもない。


「まずは掃き掃除からお願いしようかな」


 不信感を抱く僕をよそ眼に鳴海さんは箒を押し付けてくる。


「そう言えばなんだけど、ここってどれぐらいの広さなの?」


 小さいながらも趣のある二階建て、そう僕が評したようにこの建物は見たところそんなに広くはなさそうだ。


 部屋の奥に二階へと続く階段があるものの、リビングも併せて部屋数は全部で4から5部屋といったところだろうか。


「そんなに広くはないよ。ここと後は一階に二部屋、それと二階にもう三部屋」

「全部で六つってこと?」

「そうだね」


 どうやら僕の見立ては間違ってはいなかったらしい。


「お昼ご飯もいただきたいですし、まずはこのリビングからやっちゃいましょうっ!」


 磯山家を出る時から気づいていたが志津川さんはカーゴパンツに長袖のシャツというこの季節には随分と不似合いな格好だ。


 それもこれもログハウスを掃除するという目的のためで、僕も汚れても構わないような服装に出発前に着替えている。


「志津川さんの言う通り。それじゃあ頑張ろうね、立花君」


 そう言われてしまうと僕としてはそれに全面的に従わざるを得ない。気になることはいくつかあるけど、まずは鳴海さんに頼まれた依頼をこなしてしまうことが大切だ。


「そうだ、志津川さんはシンクの掃除をお願いしてもいいかな?」


 真新しい雑巾をバケツの水に浸けながら鳴海さんが志津川さんへと声をかけた。


「任されました!」


 当然この依頼に最初から随分と乗り気だった彼女は躊躇うことなく鳴海さんから雑巾を受け取る。


「水とかどうするんだろうって思ってたけど、ちゃんと水道は通じてるんだね」

「その辺は薫子叔母さんがちゃんとやってくれてるらしいよ」


 水道や電気だってタダじゃない。この建物がちゃんと管理されなくなってしばらく経つようだけれど、ライフライン関連は今もしっかりしているらしい。


 入室した時に当然のように電気は付いたし、今だって鳴海さんが新しいバケツに水を汲んでいる。


 考えれば考えるほどこの場所の奇妙さが浮き彫りになる。


 大切な場所というには心が離れすぎていて、かといって何もない場所というにはこびり付いた思いが強すぎるような、そんな不思議な場所だった。


「何考えてるんですか?」


 不意に僕の視界を覗き込むように志津川さんの整った顔が現れた。


「な、何って言う訳じゃないんだけど……っ」


 随分前にも思ったけれど、鳴海さんに比べて志津川さんは自分のそのルックスの良さをちゃんと自覚している節がある。


 そりゃ普段からあれだけちやほやされてりゃ自分の見た目が他人より多少なりとも優れていることにすぐに気付くことだろう。


 それを分かったうえで志津川さんはたまにこんな仕草を見せるのだ。


 可愛いの暴力。その拳の振り先がなぜ僕なのかは分からないけど、とにもかくにもそんなもので殴られちゃ僕だって心臓が持たない。


 咄嗟にその場から飛び退くと、僕は志津川さんからすぐさま距離を取った。


 僕なりの精いっぱいの自衛行為と言う訳だ。


「どうしてそんなに逃げるんです?」

「あーいや、そ、そんなつもりはないよ? ただちょっと体を動かしたくなったというかなんというか」


 何とか誤魔化してみるものの、勘のいい志津川さんには僕の動揺なんてすっかりお見通しに過ぎないだろう。


 何か言いたげな笑顔でニマニマと見つめるその視線が恨めしい。


「あの、いちゃついてないでやることやってもらってもいい?」


 そしてそんな僕らを咎めるように、別方向からは鳴海さんの冷たい視線が飛んでくる。志津川さんが発端のはずなのになぜかその視線が僕だけを射貫いているような気がするのは気のせいじゃないはずだ。


「い、いちゃついてなんかないよ」

「……うふふっ」


 そして嬉しそうに去っていく志津川さん。いや、そこは良い感じに否定してもらわないと困るんだけど。


「そういえば鳴海さんは夏休みはどこかに行かれたりしないんです?」


 作業もそこそこに、そこは高校生三人が集うのだ。自然と雑談も増えていく。


「夏休みかぁ……。滝水に行ったぐらいかなぁ」

「そう言えばタタッキーのスタンプ使ってたけど」

「あ、私も買いましたよっ! 鳴海さんが可愛いってお勧めしてくれた奴!」


 あれを志津川さんに教えたのは案の定鳴海さんだったのか。


「使ってくれてるんだ、嬉しい」

「えへへっ、使い勝手のいいやつが多くて助かってますっ!」


 志津川さんは友人も多い。僕以外にもきっとあの謎の切り身のキャラクターを送り付けられて困惑している人間がこの世には大勢いるのだろう。


「立花君も使う?」

「いや、僕は別に……」

「もしかして可愛いと思ってくれない感じ?」


 珍しく鳴海さんが露骨に残念そうな表情を見せた。いや、どれだけ好きなんだよタタッキーの事。


「と、特徴的で良いと思うよ!」

「可愛くないことを何とか誤魔化すための言い訳じゃん」

「立花君にはタタッキーの魅力は高度すぎて理解できないんですよっ!」

「なるほど、私と志津川さんは立花君よりも一段上ってことなんだね」


 あの、どうして僕はそんなことで美少女二人に煽られてるんですかね。


 いや、言いたかないが本当に可愛いとは思えないんだよ、あの魚の切り身。


「後はそうだなぁ……、ここに来たのも出かけたといえば出かけたってことなのかも」


 確かに、この森沢は滝田市から電車で一時間半もかかる場所だ。高校生が出かけるにはそう気軽に足を運べる場所ではない。


 それに僕も志津川さんもこの場所を訪れるのは全くの初めてのことだった。


「私は初めて来たのですが、海も山も綺麗でとても気に入りました。素敵な場所ですっ」


 僕も全く志津川さんと同じ気持ちだ。山があって海があって空があって……。そこで不意に思い出す。磯山家の廊下に飾ってあったあの絵も、確かその三つのコントラストが印象的だった。


「よし、そろそろお昼にしようか」


 会話の最中も皆が手を動かしていたおかげか、リビングは最初に来たときよりも随分と綺麗になった。


 最初にこの場所から手を付け始めたのも、みんなで薫子さんが作ってくれたお昼ご飯を食べるためだ。


「中身は凝ったものじゃないって言ってたけど、こう言うのって嬉しいよね」


 鳴海さんの言葉通り、彼女が机の上に広げた風呂敷からはラップに包まれたおにぎりと箱につまったおかずが姿を現した。


「おにぎりの中身は秘密だって。それと、お茶も持ってきたんだった」


 そう言って水筒を取り出すとシンクの脇からコップをいくつか取り出してくる。元々この場所に置いてあったものだろう。簡素なガラス製のコップが三つ、キッチンから戻ってきた鳴海さんの手に握られている。


「ちゃんと洗ったから綺麗だよ」

「別に疑ったりしてないよ」


 以前この場所を使っていた人が置いていったものだろうか。


「それでは僭越ながら、みなさんのお茶は私が注いじゃいますねっ!」


 鳴海さんから水筒を受け取った志津川さんがコップにお茶を注いでいく。受け取ったそれを一口喉へと流し込むと、ひんやりと冷えたそれが動いた体に良く沁みた。


「労働の後に一杯は最高だね」

「まだ一時間程度しか動いてないですけどね」


 志津川さんに指摘されて思わず唸る。まだ鳴海さんと待ち合わせて二時間とちょっとしか過ぎていない。


「4時過ぎまでは頑張ってもらう予定だから」

「せ、精一杯頑張らせてもらいます」

「唯一の男手だからね、頼りにしてるよ」


 そう言えばこの前の美術室でも同じようなことを高梨さんに言われた気がする。


 あの時は確か高梨さんが以前の依頼について志津川さんに話そうとして――いや、これ以上はよそう。僕としてはあの時のことはあまり思い出したくない。


「この卵焼き、お出汁が効いててすごくおいしいですよっ!」


 不意に僕の目の前に美味しそうな卵焼きが姿を現す。見れば志津川さんが目を輝かせながら僕の紙皿に卵焼きを乗っけようとしているところだった。


「ほ、ホントに? それは楽しみだなぁ」


 不意に蘇った苦い思い出をかき消すために僕は咄嗟にそれを口の中に放り込んだ。


 彼女の言葉通り、甘さの中にしっかりとしたお出汁の味を残したそれは僕の脳裏に蘇った苦さを程よく中和していってくれる。


「では、次はこのから揚げを……、んっ、時間が経ってもカリカリで美味しいですっ! どうしたらこんなから揚げが作れるんでしょうっ!」

「……ふふっ」


 あまりに見事な食べっぷりに思わずそれを見ている鳴海さんの顔からも笑顔が零れた。


「ちょ、どうして笑うんです!? 立花君も何か言って……ってなんで立花君も笑ってるんですかぁ!」

「あぁいや、あまりにも美味しそうに食べるもんだからさ」

「だぁって美味しいんですもんっ!」


 ぷいと拗ねて見せるその膨らんだ頬に、いったい怒りは何パーセントなんだろう。その中身の大半が口いっぱいに頬張っているおにぎりであることは僕にも鳴海さんにもお見通しだ。


 そんなこんなで僕らは楽しい昼食の時間を過ごし、午後の作業へと再び戻っていくのだった。

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