第37話 この街で最も空に近い場所

 駅舎から一歩外へと踏み出すと、夏場の日差しがギラギラと容赦なく彼女へ降り注いだ。


 アスファルトを照らす日差しに思わず目を細めながら、手に持ったハンドタオルで額に滲み出た汗をぬぐう。


 ここに戻るのも久しぶりだ。不意に湧き上がる懐かしさに口元を小さく緩めると、鳴海彩夏なるみさやかは待ち合わせの場所となる駅前のロータリーへと足を向ける。


「まさかまた戻ってくる気になるなんてね」


 呆れ交じりのそんな言葉が彩夏の口を付いたのはいったい何が理由だったか。しかしそんな言葉も駅前の幹線道路を行きかう車両の音と、先ほど彼女が乗ってきた鈍行列車が発車していく音でかき消されていった。


「さやちゃーん、こっちこっち!」


 目的の場所へと近づくと、不意に見覚えのあるバンの運転席からこれまた見覚えのある女性が手を振っているのが見て取れる。


「叔母さんっ、お迎えわざわざありがとう!」

「いいのよ、久しぶりのさやちゃんからの連絡だもの」


 軽い挨拶を交わしながらそのままバンの助手席へと乗り込むと、不意に彼女の鼻を嗅ぎ慣れた車の芳香剤の匂いが掠めた。


 変わってないなと微笑ましく思いつつも、それと同時に自分もあの時から変われていないなと後ろめたくも思う。それが良いことなのか悪い事なのか、まだ彩夏は断言できるほどの人生経験を積んだわけではない。


 しかし少なくとも、そんな彼女がここを再び訪れた理由は「自分を変えたい」そう思ったことが理由だった。


「それにしても急に連絡が来たからびっくりしたわよ」


 街並みから視線を移すと、バックミラー越しの視線と目が合った。


「ん、まぁ……夏だし」

「ゆっくり羽根でも伸ばそうってこと?」

「そんな感じ」


 そう言いながら去年の誘いを断ってしまった事を思い出した。


「去年は私が誘っても忙しいからって断っちゃったのに」


 あっさりとそれを指摘されてしまい、バツが悪くなった彩夏は鞄から取り出したペットボトルに口を付ける。


「……それはなんか、ごめん」

「別に怒ってるわけじゃないわ」


 運転席に座る女性は彩夏の反応に思わずふっと笑みを溢した。


「それで、今日はすぐにうちに来るんでしょ? 旦那も話したら二つ返事でオッケーしてくれたわよ? 彩夏ちゃんが来るんだーって晩御飯にも気合が入ってるみたいだし」


 現在ハンドルを握っている女性は磯山薫子いそやまかおるこ。彩夏の母の三つ下の妹だった。彩夏が幼い時分から彼女を可愛がってくれていて、今でもこうして気の置けない会話が出来る間柄だ。


「それなんだけど……」


 彩夏の視線が幹線道路脇の建物群から、その更に先の山の方へと伸びていく。


「先に行って欲しい場所があるんだ」

「……へぇ」


 唐突な提案に、しかし薫子はまるで最初からそれが分かっていたかのようにスムーズにハンドルを切る。


「薫子叔母さん……?」

「小さい時からさやちゃんを見てきたのよ。何のためにまたこの場所に戻って来たのか、なんとなく想像がつくわ」


 全くこの人には本当に頭が上がらない。告げてもいない行先になんなく頭を向ける車に思わず彩夏の身も引き締まる思いがした。


「ごめんね、叔母さんもあまり乗り気じゃないだろうに」

「それは……」


 不意に車内に沈黙が流れた。


 薫子の旦那が一念発起して購入した磯山家のマイカーの中には、ローカルラジオと薫子チョイスの芳香剤の匂いだけが車内の空気も気にせずに漂っている。


「さやちゃんが決めたことでしょ。何を決めたのかは分からないけど、叔母さんはさやちゃんの力になるだけよ」


 しばらくの間の後に力強く告げられたその言葉に、思わず彩夏の口から笑みが零れる。


 そう言えば以前にも、そんな言葉を誰かから告げられたっけか。


 通っている学校内ではあまりいい噂を聞かないボランティア部。その一員であり、実際そのルックスもあまり頼りがいがありそうには見えない彼。だけど彩夏はそんな彼のことを存外気に入っている。


 そんな彼が、先ほどの薫子と同じような言葉を自分に投げかけてくれた。


 それが再び彩夏にこの森沢もりさわの地へと足を向けさせたきっかけであることは彼女の中だけの秘密である。


「なんで嬉しそうなの?」

「……私、そんなに嬉しそうだったかな?」


 バックミラー越しに自分の表情を指摘されて、思わずぶっきらぼうな言葉が口をつく。


「もしかして……気になる男の子でも出来た?」

「ちょっ、そんなんじゃないって!」

「なになにその反応……もしかして~?」


 全く、女性というのはいつまでも恋バナには目が無いらしい。それが自分が結婚して、マイカーに姉の娘を乗せていても、だ。いや、この場合はその姉の娘が標的だから余計にといったところだろうか。


 どう誤魔化したものかと彩夏が思案していると、いつの間にか車は幹線道路を逸れて山道を登り始めていることに気づいた。


「好きな男の子……か」

「しみじみと口にしちゃってどうしたのよ」


 自分自身の失恋は記憶に新しい。好きになった男の子が出来て、だけどその男の子には本当に好きな相手がいて。それに気づいた彼女はそっとその恋心を自らの心の奥底にしまい込むことにした。


 そんな苦い記憶が彩夏の脳内をフラッシュバックしていく。


 初恋だった、という訳ではない。小学校の時分には淡い恋心を抱いていた相手もいた。しかし鳴海彩夏16年の人生において、仁科奏佑にしなそうすけほど好きだった相手がいなかったこともまた事実だ。


「……うん、気が向いたら叔母さんにも話すよ。私が好きだった人の話」

「あら、それは楽しみだわ」


 何かを察したのか薫子もそれ以上追及してこない。


 そうこうしているうちに車はどんどん山道を登っていき、遂には山頂近くの開けたスペースへと辿り着いた。


「ほら、着いたわ」


 薫子の掛け声とともに後部座席の扉から外へと出る。すると今度は彩夏の鼻先を、森の木々の青々とした匂いが駆け抜けていく。


「久しぶりに来たんじゃない?」

「そうだね」

「私も久しぶりに来たわ。ってか草伸び放題じゃない!」


 薫子の指摘通り、車二台ほどが駐車できる空間を除いて、辺り一面は雑草で覆われてしまっている。


「建物の名義は一応私になってるけど管理なんてしてないからねぇ。そんな暇も誰かに任せられるお金もうちにはないわ」

「そりゃそうだよね」

「地主の大山さんは勝手にしていいって言ってくれてるけど……」


 そう言いながら薫子は足元の雑草をかき分けて先へと進んでいく。薫子に遅れまいと彩夏もその後に続く。そんな彼女の進行方向の先には、小さなログハウスがぽつりとその居を構えていた。


「これは……苦労しそうだなぁ」


 ボロボロの外装に周囲を覆う雑草。しかしそんな光景を見ながらも、なぜか彩夏の表情はどこか嬉しそうだった。


「ただいま、お爺ちゃん」


 ログハウスを見つめる彩夏の顔には、いったい今どんな想いが浮かんでいるのだろうか。


 亡き祖父瀬名寛治せなかんじのアトリエは、今も森の奥で一人の天才少女の帰りを静かに待っていた。

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