第36話 蝉しぐれは告げる

「お久しぶり、立花君」


 彼女との再会は想像以上に早くやって来た。


 遠くに見えた未確認飛行物体。それから伸びるロープの下で、彼女は見慣れた笑みを浮かべていた。


「久しぶりだね鳴海さん」


 鳴海彩夏なるみさやかは今日も、相も変わらず空の写真を撮り続けていた。


「……どうして夏休みなのに制服なの?」

「学校に用があったからね」


 僕の身なりを指摘する傍ら、鳴海さんはそそくさと空に浮かぶ未確認飛行物体の回収を始めた。その正体は彼女の身長ほどもある大きな銀色のバルーンだ。


 その下にはいつか見た小さなデジタルカメラが今日もちょこんとくっ付いていた。


「ボランティア部ってそんなに積極的に活動してるの?」

「たまたまだよ。頼まれごとがあってね」

「……ボランティア部に?」


 そう言って鳴海さんは怪訝そうな表情を浮かべる。


「もしかしなくても公に出来ない感じの依頼かなんかだと思ってる?」

「だってボランティア部ってそうでしょう?」


 本当にいつからだろう。我がボランティア部が鳴海さんのような一般生徒にヤバい組織だと思われるようになったのは。


 というかそういう鳴海さんこそ僕らに依頼を頼んだじゃないか。いや、あれはどちらかというと鳴海さんが思っている通りの依頼内容だったけど。


「ただの手伝いだよ。美術準備室の片づけをしてくれって依頼」

「美術準備室……」


 僕の言葉に鳴海さんの表情が僅かに曇る。どうやら美術部にはあまり良い思い出が無いらしい。


「高梨さんも悪い人じゃないんだけどね」


 僕の思うところを察してか、鳴海さんは自身の言葉にそう付け加えた。


「というかお手伝いって、完全にボランティアじゃん」


 いつのまにか鳴海さんはバルーンの回収を終えていて、今は近くの切り株に腰を下ろしてバルーンから残ったヘリウムガスを抜いていた。


「いや、だから僕らはボランティア部だって」

「ほんとうに……?」


 そう言って微笑む鳴海さんは相も変わらず綺麗だった。


 眩しくて、でもどこか儚くて、今すぐにでも消えてしまいそう。例えるなら――


 そう、例えるなら彼女が描いた夕焼けによく似ていた。


「何か言いたげだね、立花君」

「そう思う?」

「うん。というか、何か言いたいことがあってここに来たんでしょ?」


 そういえば僕はどうしてここに来たんだろう。


 帰り道に銀色のバルーンを見かけた瞬間、なぜか無性にここに来なきゃいけないような気がしたんだ。


 誰に頼まれる訳でもなく、間違いなく自分の意思で僕は彼女と話がしたいと思ったんだ。


「あのさ、もう絵は描かないの?」


 多分その言葉を鳴海さんは何度も耳にしてきただろう。


 それでも、僕は改めて彼女の口からその理由が聞きたかった。だって僕は出会ってしまったからだ。あの夕焼けに、あの空に。


 空を忘れた天才少女。そう評された彼女がどうして空を忘れようと思ったのか、その理由が知りたかった。


「私の好きな人と同じことを聞くんだね」


 しかし僕がようやく絞り出したその言葉は、鳴海さんの曖昧な笑みにかき消されてしまった。


「誰にも話したくないの、私がどうして絵を捨てたのか」


 手元のデジカメを弄りながら、それでいて鳴海さんの視線はどこか遠くの何かを見つめていた。


「そういえばさ」


 ふと、忙しなく動いていた鳴海さんの指先が動きを止めた。


「この前言ってたことってまだ有効?」

「この前言ってたこと?」


 はて、いったいいつの何だろう。正直鳴海さん関連のことについては衝撃的なことがありすぎてよく覚えていない。


 さっき彼女が口にした『私の好きな人』だってそうだ。


 まさか鳴海さんまで仁科君のことを好きだったなんて当時の僕は想像すらしてなかったのだ。


「あんなにかっこつけて言ったのに、覚えてないなんてサイテーだね」

「ご、ごめんってっ! あの時はいろいろと精一杯だったんだよ」

「志津川さんのこととか?」


 ドキリ、と心臓が一つ大きく鳴った。


「その様子だと図星だね。おかしいと思ったんだ。ボランティア部に行った時、どうして志津川さんと立花君がさも親しげに話してたのか」


 あの時はそんな素振り一切見せなかったのに。鳴海さんは思ったよりも強かな女の子だった。


「志津川さんは何かボランティア部に相談事をしていた。どう?」

「…………正解だよ」


 僅かな沈黙の後、僕は彼女の言葉を肯定することにした。そこを突かれてしまうと正直隠し事を続けるのは無理だろう。

 それに、仮にこれを明かしたところで鳴海さんはそうそう他言するような人じゃない。


「あっさりと認めるんだね」

「隠し通せる気がしないからね」


 思わず僕の口から大きなため息が漏れた。それを降参の合図と受け取ったのか、鳴海さんはどことなく嬉しそうに僕へと距離を詰めてくる。


「誰にも言わないって」

「そうしてくれるとありがたい。じゃないと僕は夏休みが明けて早々学校に通えなくなる」

「……本当にそうなりそうで怖いね」


 志津川琴子しづかわことこは桑倉学園のアイドルだ。無数の男どもが手を伸ばしたがり、結果その星に届かぬままに屍となっていく。


 そのことを鳴海さんもよく知っていた。


「立花君の素敵な学園生活を願って、改めてこのことは秘密にしておくね」

「お気遣いありがとうございます」


 深々と僕が頭を下げると、鳴海さんは一つ嬉しそうに声を上げて笑った。


「……それで」


 僕の素敵な学園生活も保障されたところで、改めて先ほどの話に戻ることにする。


「結局僕の言ってたことって……?」

「それなんだけど、改めて聞くけど、ボランティア部ってどんな相談も受けてくれるの?」

「依頼主が本当に困ってるならね」

「ふむ……」


 何か一つ考え込むと、直後に鳴海さんは何かを決意したように顔を上げた。


「立花君言ったよね。私が望むのなら、立花君が必ず協力してくれるって」


 瞬間、僕がかつてここで彼女に何を口にしたのかの全てを思い出した。


「鳴海さんにその意志があるのなら」


 その言葉で、彼女は僕があの日の出来事を思い出した音を悟ったのだろう。


「……そっか」


 色々な感情を含んだ彼女の小さな呟きが、僕の心の奥の大事な琴線を大きく震わせた。


 僕はずっと大切なことを忘れていた。


 『負けヒロイン』は志津川さんだけじゃない。


 その想いを心にしまい込んでしまった鳴海さんだって、僕にとっては立派な負けヒロインだったということを。


「僕は今も、鳴海さんの力になりたいよ」


 精いっぱいの言葉に、彼女はあの日僕が胸に焼き付けた柔らかな笑みと同じ表情を浮かべた。


「それじゃあ改めて、ボランティア部にお願いがあるの」

「……なんなりと」

「あのね」


 瞬間、彼女のトレードマークともいえる肩まで伸びた艶やかな黒髪が夏風に揺れてふわりと跳ねた。


「ログハウスの掃除を手伝って欲しいの」

「…………え、どういうこと?」

「……ふふっ……ははっ、何その顔!」


 きっと鳴海さんが指摘した僕の顔は、それはそれは随分と間抜けな顔をしていたことだろう。


「もしかして立花君、ログハウスを知らない人種?」

「いやいやいや、それぐらいは分かるよ!? だけどさっ!?」

「じゃあなんであんなに綺麗に口を空けてたの」 

「さっきのシリアスな空気とそのお願いが結びつかないからだよ!」

「私には大事なことなの」


 カラカラと鳴海さんの笑い声が辺りに響いた。


 いや、どんなお願いが来るか覚悟した身にもなってもらいたいものだ。


「ね、手伝ってくれるでしょ?」


 僕を見つめる鳴海さんの綺麗な瞳は、夏空に負けないぐらいに澄んで輝いていた。


「……それぐらいなら」


 八月が始まろうとしている。騒がしく鳴り響くセミの声が、僕の平凡になるはずだった夏休みが賑やかになることを告げていた。

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