第34話 或る在り方

「こ、これって……」

「鳴海さん、ご本人ですよね?」


 思わず唖然としてしまう僕と志津川さん。それを疑問に思ったのか高梨さんも「なになに~?」と呑気に近づいてくる。


「この作品集なんだけど……」

「あぁ、懐かしいね。2年前の奴だっけ。私が中学生の時の作品集だよ」

「へ、へぇ……」


 努めて平然とリアクションをして見せるが、僕の心臓は今もバクバクと大きな音を立てていた。


 何か大切なものを覗き見てしまったような罪悪感が何度も僕の胸の奥を突き刺しているようだ。


「綺麗だよね、空」


 確かに、そこに描かれていた夕焼けはどこまでも広くて、まるで世界の果てまでも行けてしまうような気さえ感じさせる。中央に小さく描かれている少女はこの夕焼けをどんな気持ちで見つめているんだろうか。


「素敵ですね」


 先ほどまで何か言いたげだった志津川さんでさえ、今はその空に魅入っていた。


「そう言えばさっき懐かしいって言ったけど、この作品集って美術部にとって大切な奴だったりするの?」

「先輩の作品が載ってるんだよね。もうとっくに卒業しちゃったけど。えっと……どこだっけな」


 高梨さんは僕から作品集をひったくると、景気よくペラペラとページをめくりだす。しばらくして彼女が指を止めたページには滝田の綺麗な街並みと、中央を大きく割る雄大な千歳川が描かれていた。


「これこれ。凄いでしょ、私も先輩みたいな絵が描きたいんだぁ」


 そう口にした高梨さんの目はキラキラして眩しかった。憧れを見つめ続ける真っすぐな目。


 花火大会の日に志津川さんを見ていた僕も、高梨さんのようにキラキラしていたんだろうか。


「いやぁそれにしてもすごいよ先輩は。だって県で一番だよ! 県立美術館にだって展示されてたんだから! 本当にすごいよ。本当に……」


 尻すぼみになっていく高梨さんの言葉。先ほどまで憧れに目を輝かせていた彼女の瞳は、だけど今はじっとただ手元の夕焼けを見つめている。


 空を忘れた天才少女。今そう評されている鳴海彩夏なるみさやかの絵は、中学生の絵画コンクールで金賞を受賞したらしい。


 つまり今ここにある空は鳴海さんにとっては決して忘れることのできない空なはずなのだ。


 それなのに鳴海さんは今はもう空を描くことを辞めてしまった。いや、彼女の言葉を借りるなら空を描くことを「捨ててしまった」。


「鳴海さんはね、凄いんだよ……」


 ぽつり、何かを羨むように高梨さんはそう告げた。


「才能ってああいうのを言うんだって、初めてこの絵を見た時に思ったんだ。あぁ、私には一生をかけてでもこんな空は描けないんだって」


 見るものを魅了するその空は、立場が変われば圧倒的な差を見せつけられるだけの絶望の空に変わる。


「私、何度も鳴海さんに声をかけてみたんだ。一緒に美術部で絵を描かない? って」


 そう言えば鳴海さんは何度も美術部に勧誘されているようなことを口にしていた。僕が初めて彼女と話したときも、確か美術部の勧誘と勘違いしてたんだっけ。


「それで、鳴海さんはなんと……?」


 志津川さんも彼女の動向には興味があるらしい。そりゃ同じ人を好きになったライバルだ。それに、どことなく僕は二人がかなり気の合う友人になれるような気がしていた。


「何も言ってくれなかったよー。ただ一言、絵を描かない人が美術部に入っても申し訳ないからって」

「高梨さんは彼女が絵を描かないことを?」

「知ってたよ。高校に入ってから一度も名前を聞かないんだもの。あんなにすごい絵を描くのに、そんな人の名前をコンクールで聞かない訳が無い。だからなんとなくもう描いてないんだろうなって」

「そ、そうなのですか……」

「勿体ないなーって思っちゃう反面。なんとなくそうなるんだろうなって納得してる自分もいるんだ」

「どういうこと?」

「いや、きっと天才には天才にしか分からない悩み事があるんだろうなって」


 そう言うと高梨さんは手に持った作品集をまるで隠すように元あった本棚へとしまい込んだ。


「……僕はそうは思わないけどな。きっと悩み事の本質って似たようなもんだからさ、きちんと言葉を交わし合えば誰だって寄り添えあえるよ」

「お、言うねぇ立花君や」

「からかわないでよ」


 意地の悪そうな顔で笑う高梨さんを見て、志津川さんも思わず口元に笑みを溢していた。


「ちょ、志津川さんまで!」

「ふっ、ふふっ……ごめんなさいっ、カッコつけの立花君が面白くて」

「そ、そんなつもりじゃなかったんだって!」


 前言を撤回しようにも吐いてしまった言葉はもう戻ってこない。


 僕はこれから一生この二人に先ほどの件で弄られ続けるのだろうか。


「でも、そういう立花君、私は好きだよ」


 そう言って窓際で笑う高梨さん。すると不意にぐいと別の方向から僕の腕が引っ張られた。


「わわわ、私だって、す、す、好きですよ!? その、た、立花君のこと……」


 見ればそちらでは志津川さんが僅かに頬を膨らませながらこちらを見つめていた。


「あ、あの、志津川さんや、いったいどうされたので?」

「ほう……ほう……ほうほうほう……」


 そしてそんな僕らを見ながら意味深に口元を歪めて見る高梨さん。いったい二人ともなんだってんだ。


「ま、志津川さんのそれは置いといて。ボランティア部のことは悪い評判もあるけどさ、私は割と信頼してるんだ」


 先ほどの悪代官みたいな笑顔は何処へ行ったのやら。高梨さんはあっけらかんとそう言ってのけると、志津川さんの膨らんだ頬をぷにぷにとつつき始めた。


「正確に言うと立花君のことを、だけどね」

「それは……なんというか嬉しいな」


 僕のやって来たこれまでの活動がしっかりと評価されているのは嬉しい。僕はきちんと誰かの役に立てているんだ、ということをこうして改めて実感している。


「なんとなく志津川さんが立花君と一緒にいる理由も理解できるよ」


 高梨さんがそういうと、先ほどまでなすすべもなく頬を突かれ続けていた志津川さんの表情に笑顔が戻った。


「高梨さんもわかる人ですね!?」

「な、何が……?」

「立花君が頼りになる人だという事です!」

「そ、それは……まぁ、私も随分とお世話になったし」


 多分志津川さんが僕に抱いている信頼と高梨さんの信頼とは意味が違っているんだろう。だけどめんどくさいから気付かなかったことにしよう。


「と、とにかく、きっと鳴海さんには鳴海さんの事情があって、それを僕らが勝手に理解を放棄するのは身勝手が過ぎるんじゃないかって思うんだよ」

「それは……そうかもしれませんけど」

「だけど勝手に寄り添わせてくれってのもまた身勝手だよね」

「だね、高梨さんの言う通り。だからそのためのボランティア部さ」


 僕がそう言うと二人は顔に疑問の色を浮かべた。


「頼まれたら力になるってことさ」

「あぁ、なるほど」


 どうやら志津川さんは理解してくれたらしい。


「依頼を受けるまではあくまでも鳴海さん自身の問題ってことです」

「来るものは拒まず、だけど来ないものまで追いかける気はないってことさ」


 僕らの言葉が腑に落ちたのか、その後すぐに高梨さんは「なるほどね」と納得の声を上げた。


「さて、いつまでもこうしてちゃ仕方ない」

「そだね。立花君には昨日お昼までって連絡しちゃったし」


 ポケットのスマホを見ると、既に時計は11時を僅かに過ぎたところを示していた。


「では、もうひと頑張りしましょう!」


 志津川さんの掛け声とともに僕らは再び「依頼」へととりかかる。


 そんな僕らが無事に作業を終えたのは、予定通り正午まで僅かといった頃合いだった。

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