第27話 腐乱死体と決戦前夜

「ぼあぁああああ……」


 終業式まで三日と迫ったある日の放課後、僕が課題の提出を終えて部室に向かうと、そこには美少女の腐乱死体が転がっていた。


「あ、あの……志津川しづかわさん?」

「ばぁあああ……」


 駄目だ、完全に思考能力をどこかに落としてしまっている。


「あの、僕しかいないとはいえ流石にその恰好はどうかと思うよ?」


 志津川さんはうつ伏せで大の字に床に転がっている。僅かにめくれたスカートから白くて柔らかな太ももが顔を覗かせている。が、そんなことも気にならないほどになんというか、絵面が酷い。


「ほ、ほら、起きて」

「立……花……君?」

「はい、立花君ですよ」


 床に垂れ落ちた両手を握ると勢い任せに彼女の体を引き上げる。それと同時に器用に足で近くの椅子を引き寄せると、そのまま志津川さんの体を椅子へと誘導する。


「あ……あーと……ごじゃます」


 思考能力は僅かに戻ったらしいけど語彙力は相変わらずのままだ。


「ほら、これあげるから元に戻って?」


 読書のお供にと自販機で買ってきたコーヒー牛乳にストローを刺すとそのまま志津川さんの口元まで持っていく。


 するとまるで目の前に餌を出されたひな鳥のように志津川さんはストローへと食いついた。


「あまぁーい」

「はい、元気になった?」

「ご、ご迷惑をおかけしました」


 志津川さんのこんな姿を見たらいったいどれだけの人が幻滅するんだろう。彼女をある種崇拝する人たちからしたらこの光景は目に毒が過ぎる。


 まぁ、それとは別で一定の層に需要がありそうなのも確かだけれど。


「で、いったいどうしたの? 部室の床で潰れるほどの何かがあったの?」

「き、き、聞いてくださいよっ!」


 コーヒー牛乳によって活力を取り戻したのか、先ほどとは打って変わって志津川さんの目には活力が戻っている。


「き、聞くから離れて……」


 そして相変わらず近い。僕の鼻先を彼女のシャンプーの香りが明確に揺蕩たゆたうほどの距離感だ。時折思うが、この人は男性との距離感をこれまでの人生できちんと学んできたんだろうか。


 ううむ、そうなると志津川さんの今後が少し心配だ。


「何か考え事です?」

「いや、大したことじゃないよ。それよりも志津川さんの話は?」

「そ、そうでした」


 「ゴホン」とひとつ咳を挟むと、志津川さんは改まった姿勢で僕を見つめた。


「立花君、あなたに依頼をお願いして本当に良かったと思ってます」

「ど、どうしたの急に……」


 お礼を言われる理由は分からなくもないけどどうしてまたこのタイミングなんだ。


「私は……見てしまったのですっ」

「み、見たって何を……」

「人気のない朝の通学路。楽し気に腕を組んで歩いてくる二人のカップルをっ!」


 そりゃ桑倉学園にもカップルは大勢いる。今更志津川さんは何を言っているのやら。


「違いますよっ! 見たのは仁科君と柚子ちゃんです!」

「あ、あぁーそういう事か」


 どうやらあの後仁科君はきちんと自分の想いを粟瀬あわせさんに伝えることが出来たらしい。

 そういえば翌日に僕の元に鍵を返しに来た仁科君が一緒に缶コーヒーを渡してくれたのはそういう礼も兼ねてだったのか。


 なんだ、一言言ってくれればちゃんとお祝いぐらいしたのに。


「それを見て確信しました。立花君はしっかりと私のお願いを聞いてくれたんだなぁって」

「大したことはしてないよ。というか志津川さんが腐乱死体になってたのはそれが理由?」

「ふ、腐乱死体って……。確かに落ち込んでたのは確かですけど。というか好きな人がほかの女の子と仲睦まじい様子を見せられて落ち込まない方がどうかしてると思いませんっ!?」


 落ち込んでたなんて範疇じゃなかったけどね。


「それに、僕はまだ志津川さんの『依頼』を完遂できたわけじゃないよ。志津川さんの『依頼』はまだ絶賛遂行中だよ」


 『私を、最強の負けヒロインにして欲しいのですっ!』


 僕の元に初めて志津川さんがやって来た日、彼女はそう僕に頼み込んできた。その熱と想いの強さに心動かされて僕は彼女の協力をしたけど、そのお願いはまだ道半ばだ。


「そう……ですね。まだ私には計画の最終段階が残っています」

「お祭りまで後4日だね」


 志津川さんの視線につられるように、僕の瞳も自然と部室の壁に掛けられたカレンダーへと引き寄せられた。


「そこで私は仁科君に告白して……そして、振られるんですね」

「そうだね」

「ちなみに当日立花君はどうするんです?」

「僕は行かないよ」

「はえっ!? なんでですかっ!?」


 いや、そんなリア充イベントに元々縁がない僕が行ってもしょうがないじゃないか。それにほら、誘ってくれる人もいないし。


「いや、その、読みたい本があってさ……」


 べ、別にこの回答は志津川さんに少しでも見栄を張りたかったとかそういうんじゃないしっ。ただ一人でお祭りに行くのが辛いだけだしっ。


 ……いや、どっちの言い訳も虚しいだけだなこれ。


「僕には事後報告だけしてくれればいいから……」

「そんなぁ」


 あからさまに落ち込んで見せる志津川さん。しかし残念なことに僕も花火大会の会場を一人で歩くほどの勇気はない。


「しょうがないですね、立花君は」


 今回の依頼に関しては志津川さん本人が自分のことを『最強』の『負けヒロイン』であると認められればそれでいいと思っている。


 だからその場に僕の有無なんて必要ないのだ。


「しょうがなくなんてないぞっ! 琴ちゃんっ!」


 しかしそんな時だった。聞き覚えのある声と共に部室の扉が開かれた。


「ぶ、部長!?」

「みったん先輩!?」


 そこに居たのは我がボランティア部部長、みったん先輩こと西園寺瑞葉さいおんじみずはその人だった。


「オラオラっ、部員がそんな体たらくだなんて、私は部長として恥ずかしいぞいっ!」


 とても高校3年生とは思えないほどのその小さな体を目いっぱいに膨らませながら、西園寺部長はプリプリと頬を膨らませている。


「なぁにが僕には事後報告だけしてくれればいいから……だ。『依頼』は最後まで見届けてこその依頼だろう!?」

「そ、それは……」


 確かに部長の言い分はごもっともだ。花火大会当日に会場でひとりぼっち、だなんて世間体を気にして僕は大切なことを忘れてしまうところだった。


 というかこの人いったいどこから盗み聞きしてたんだ。


「おおよそ夏祭りの会場に一人で行きたくない、なんてほざいてるのだろう?」

「あー、えっと、その……はい」

「みったん先輩、立花君は別に悪くないんですっ」

「いーや、琴ちゃんは黙っておいてくれ。これはボランティア部の信用に関わる問題だ」


 確かに。最後まで見届けてもらえないというのは依頼人としては不安だろう。これまでもそうやって最後まで付き合ってきたじゃないか。それを僕は――


「いいじゃないか、誰かと行けば」

「あのですね部長。そんな人間が居ないから僕は悩んでいるのであって……」

「ここに居るだろうっ!」

「え、あー、えっと、どこに?」

「ぶん殴るぞこの野郎」


 「ま、そういう事だから」とそれだけを言うと部長はこの会話を切り上げた。なるほど、これは雫梨しずりに一言頼んでおいたほうが良さそうだ。


「で、だ。琴ちゃんや」


 僕への興味は薄れたのか、部長の視線は今度は志津川さんの方へと移ったようだ。


「私のアドバイスは効いたかぇ?」

「あ、アドバイス……?」


 そう言えば以前、部長が志津川さんへとなにか言っていたような気がする。確か部長と志津川さんが初めて出会った日。なんて言ってたっけか……。


「『心の声に素直に生きろ』ですよね」

「だぜ!」


 やっぱり志津川さんは優秀だ。あの日部長がなんとなく言ったことをそんなにきっちり覚えているとは。僕はその言葉が正解かどうかすら分からないというのに。


 嬉しそうに頬を緩める部長の様子から言って完全正解なんだろうけど。


「どうでしょう……。そのつもりで精一杯やってきたつもりですが」

「そう思うのなら大丈夫だな。いっくんは頼りになったかい?」

「ええ、それはとっても!」


 そう言ってもらえると僕も嬉しい。


「良かったじゃないかいっくん」

「そう……ですね」


 僕のやって来たことは本当に僅かだ。この計画のほとんどは志津川さんが自分で進めてきたもの。僕の見えないところでいくつもの言葉が交わされて、それが志津川さんと仁科君の心を繋ぎ、彼女の想いを少しずつ膨らませていった。


 その全てを僕は知る由もない。


 いや、そもそも知る必要はない。


 この物語は仁科奏佑という『主人公』と志津川琴子という『負けヒロイン』との間に紡がれてきた青春恋愛劇なのだから。


「志津川さん」


 ふと、僕はどうしようもなく彼女の名前を呼びたくなった。


「はい、どうしましたか立花君」

「その……頑張って」


 何に対しての頑張ってなのかを言葉にした僕自身もよく分かっていない。だけど彼女は確かに僕の声に答えてくれると信じている。


 だって僕の問いかけに答えた彼女は、出会った時からずっと理想の負けヒロインだ。


「はい、もちろんです」


 七月も下旬に差し掛かろうとしている。窓の外では五月蠅いくらいにセミの声が響いていた。


 志津川琴子の初恋の終わりが4日後に迫っていた。


 その日が終わったとき、果たして僕と志津川さんの目にはどんな世界が映っているんだろう。

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