第23話 大好きを胸に刻んで

 鳴海彩夏なるみさやか


 僕や志津川さんと同じ桑倉学園に通う二年生。黒真珠のような艶やかな髪とどこか儚げな雰囲気が独特の美少女。


 しかしその正体は過去、数多くの絵画コンクールで優秀な成績を修めてきた天才少女だ。だがそれも今や昔のこと。


 とある美術批評家は彼女のことを自身のブログでこう評したそうだ。曰く、『空を忘れた天才少女』。彼女はいつしか空を描くはずの筆を置き、こうして時折誰も居ない山奥で一人静かに銀色のバルーンを掲げている。


 そんな彼女は今、僕の目の前ですぐにでも壊れてしまうんじゃないかと思えるほどの儚げな笑顔で、ただ小さく遠くを見つめていた。


「仁科君が……粟瀬さんを、好きって」

「どうしてそんなに衝撃を受けたような顔をしているの。たかが同学年の男の子に好きな人がいただけの話でしょ?」


 そりゃ鳴海さんから見たらそうかもしれない。


 しかし僕としてはそうはいかないのだ。仁科君はずっと、鳴海さんといい仲だと思っていた。あの日、美術部で仁科君と話した日。彼は確かに鳴海さんのために何かを為そうとしていた。


 僕の知っている仁科奏佑にしなそうすけは何かを簡単に諦められる男じゃない。


「仁科君と鳴海さんは……親しい関係じゃないの?」


 だからこそ、ついそう尋ねてしまった。


「……どうしてそう思うの?」


 鳴海さんの怪訝そうな表情が僕を貫く。口にしてすぐに「まずい」と僕の脳が警鐘を鳴らした。


 仁科君との美術室での会話は、志津川さんはもちろん鳴海さんにも秘密の話だ。ましてや鳴海さんと仁科君は僕の隣のクラス。二人の関係に何らかの邪推をするにはそれなりの根拠が必要になる。


「もしかして、二人でいるところを見られたり……?」

「そ、そうそうっ! たまたま見かけたんだよっ!」


 鳴海さんの呟きに咄嗟に便乗する。彼女からしたらただ考え事が零れただけなのかもしれないが、志津川さんの依頼を秘密にしたい僕としては渡りに船だった。


「そっか……見られちゃってたかぁ。あんまり人目に付かないようにはしてたんだけど」

「ごめん……本当に偶然なんだ。もちろん、このことは誰にも言ってないから」

「ほんと?」

「本当」

「…………じゃあ、立花君を信じる」


 決して表情に出さないようにしながら、僕は小さくホッと胸を撫で下ろした。


「もしかしたら、仁科君は気づいてないのかもしれない」

「自分が粟瀬さんを好きなことを?」

「うん。だって二人は幼馴染でしょ?」


 どんな理屈だ。幼馴染同士が互いに両想いになれるのなら、世の中から目に大粒の涙を浮かべる『負けヒロイン』は激減する。


「本当にそうなの?」

「見てればわかるよ。気付いてないのは当人たちだけ」


 呆れるように鳴海さんは笑う。美少女の鳴海さんには、やっぱり笑顔がよく似合った。


「だから鳴海さんは仁科君に粟瀬さんと付き合って欲しいんだ」

「うん。その方が絶対に二人とも幸せだよ」


 今度は先ほどとは違って心からの笑みだった。


 だけどそうなると、今度はまた別の疑問が湧いてくる。


「それならどうしてわざわざ僕の元に依頼を持ち込んだの? そんな二人なら、いつかは両想いになれるんじゃないの?」

「そうしたら、私が吹っ切れると思ったから」

「吹っ切れるって……」

「私さ、仁科君が好きなんだ」


 その言葉に僕は一体何と答えればいいんだろうか。考えに考えた結果僕の口を付いたのは「そっか」という面白さにも配慮にも欠けたありきたりな言葉だった。


「驚かないの?」

「どうして、って気持ちはあるかな」

「それじゃあさ、例えば立花君に毎日甲斐甲斐しく声をかけてくれて、自分を楽しませようとしてくれて、困ったときはすぐに助けになりたがってくれるとびっきりの美少女が居たら好きになるでしょ?」

「…………なる。百パーセントなる」


 なんだその夢のようなシチュエーション。いやでも待てよ、そういう事か。


「私にとっては仁科君がそれだったんだよ」

「あぁ……」


 僕は小さく頭を抱えた。仁科君は優しい。もし鳴海さんの事情に少しでも通じているのなら、そんな彼女のために力になってやりたいと思うのは彼らしいことだ。


 というか現に僕は美術室でそのことを彼自身から聞いている。


「あのさ」


 一つ。僕は覚悟を決めることにした。ここまで包み隠さず鳴海さんは自らの感情を吐露してくれたのだ。仁科君には悪いけど、鳴海さんは知る権利がある。


「ずっと隠してたことがあるんだ」

「……どうしたのさ急に」

「僕、以前鳴海さんのことを仁科君から聞いてるんだ」


 仁科君との会話を鳴海さんへと伝える。これが僕の覚悟だった。


「……そうなんだ」


 しかし鳴海さんは僕の言葉にも随分と落ち着いた様子だった。


「驚いたりしないの?」

「分かんない。心のどこかでもしかしたらって思ってたのかも」

「その時にさ、仁科君こう言ってたんだよ」


 「俺さ、もう一度彩夏に絵を描いて欲しいんだ」。その言葉が仁科君が鳴海さんを大切に思っている証拠であり、そして何よりも僕が志津川さんの想いの終着点を見届けたいと強く思ったきっかけだった。


「立花君ってさ、結構ロマンチスト?」

「きゅ、急になんでさ!?」


 唐突にそんなことを言われたものだから思わず声が上ずってしまった。そりゃ物語に出てくるようなシチュエーションは好きだけど、それが現実にも当てはまるかと言われるとまた違う話であって――


「仁科君の私に対する優しさはさ、ただの優しさであって恋愛感情じゃないよ」

「……マジで?」

「マジで」


 えぇ……あんなに真剣な顔で「俺は俺なりに彩夏のことを考えてみる」なんて口にしてたのに。そりゃ誰だってその子のことを好きなんだろうなって思うじゃんあんなの。


「どうしたの?」

「いや、急に仁科君のことをぶん殴ってやりたくなって」

「せめて殴る理由を本人に伝えてからそれやりなよ」


 理由があったら許されるパターンなのか。


「だからさ、仁科君が粟瀬さんとバッチリ付き合ってくれたら、私もこの気持ちをすぐにでもほっぽり出せるんじゃないかーって」

「そんなもんなのかな」

「そんなもんだよ」


 僕の思っていたメインヒロインは蓋を開けてみるとどこかで見かけそうな一人の『負けヒロイン』だった。


 いつの間にか僕は無意識のうちに女の子たちを枠に当てはめ、その子の本当の気持ちも知らずに面白いように解釈するだけの人間に成り下がってしまっていた。


 きっと志津川さんにも僕は同じような態度を取ってしまっていたのだろう。


 そう考えると過去の自分に無性に腹が立ってくる。それと同時にとめどなく申し訳なさが胸の奥から滲みだしてきた。


「そういえば」


 ふと、僕はどうして志津川さんの依頼を受けようと思ったのか、そのきっかけとなった言葉を思い出した。


「僕の好きな負けヒロインがさ、こんなことを言ってたんだよね」

「負けヒロイン?」

「うん。その子がさ、「悔しくても、悲しくても、それでも好きだった人のために精一杯笑えるような、前向きな女の子。私は、あの子たちみたいになりたいんです」って」

「漫画かアニメ?」

「そんな感じ」


 僕の大好きな言葉だ。そんな姿に憧れる彼女だからこそ、僕は今日までこうしてやって来れたのだ。


「前向きな女の子……か」


 そう言った鳴海さんの声色には、どこか一種の諦めのような感情が見て取れた。


「私には無理かも」

「どうして……?」

「私は絵を捨てちゃったから」


 彼女は絵を「辞めた」ことを「捨てた」と表現した。そこにはきっと僕では到底理解できないほどの悲しみや苦しみがあったのだろう。

 

 それでも――


「無理じゃないよ」

「どうしてそう言い切れるの?」


 僕はまだ鳴海さんのその悲しみや苦しみに触れられるほどの交友を重ねていない。だけど確かなことが一つだけ。


「鳴海さんが望むのならば、僕が必ず協力する」

「どうして……?」


 心から感じるのだ。彼女もきっと、志津川さんと同じく乗り越えたい何かがあるのだと。諦めてしまった何かが心の奥底にずっと引っ掛かり続けているのだと。


 だからこそ―― 


「僕が鳴海さんの力になりたいと思ったから」

 

 そんな女の子の手助けが出来ず、何が負けヒロインに心を焦がす存在だ。これこそが僕こと立花一樹たちばないつきのボランティア魂であり、そして負けヒロイン愛である。


「ねぇ、私も前向きになれるのかな……?」

「鳴海さんにその意志があるのなら」


 そう言うと鳴海さんは口元を小さく緩めた。


 今まで僕が見た、鳴海彩夏の一番柔らかい笑顔だった。


「もしかしたら時間かかるかもよ?」

「だったらのんびり付き合うよ」


 負けヒロインとして前向きに生きていくには、何よりも失恋を乗り越えることが必須である。そのためにまず――


「とりあえず、鳴海さんの依頼をボランティア部として改めて受けさせてもらうよ」


 この失恋を完成させなければならない。


「ねぇ、立花君」

「どうしたの?」

「ところで、『負けヒロイン』って何?」

「え、分からずに今まで話合わせてたの?」

「いや、立花君の熱がなんか怖くて途中で口をはさめなかったというか……」

「そ、それはごめん」


 鳴海さんに『負けヒロイン』について理解してもらうのにこの後20分程時間を要したのはまた別のお話である。

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