第10話 エマージェンシー・エンカウント

 半ばレクリエーションと化した体育を終えると、4限は現代文の小テストが待ち構えていた。


 英語や数学は苦手だけど、現代文や古文は比較的得意な方だ。小テストも授業範囲からしか出題されないし、僕は制限時間を大幅に残してテストを書き終えることが出来た。


(見直しまで終わると、テストって意外とやることないよな……)


 教室には未だに問題と格闘を続けるクラスメイト達のペン先の音が景気よく鳴り響いている。視界の端では、教室前方の志津川さんが小さく首を傾げているのも眼に入った。


(ん、あれって……)


 僕がそれを目にしたのは本当に偶然だった。そんなこんなでやることが無くなってしまった僕が手持ち無沙汰になんとなく窓の外に視線を向けたその時だった。


 僕の所属する2-Bの教室は西棟の3階に位置している。窓からは東棟が一望でき、東棟廊下の向こう側には専門教室が並んでいる。


 そんな東棟の一角。ちょうど向かい側の教室に、誰かが入っていくのが眼に入った。


 向かいの教室には明かりがついておらず、その顔色までは分からない。しかしそれがとびきりの美少女であり、僕らの計画の重要人物であるというのは遠目にでも分かった。


(鳴海さん……あんなに堂々と授業をサボる人だったとは)


 隣の教室、つまり2-Aの教室からは数学の先生の小難しい講義が今も聞こえてきている。彼女は仁科君と同じクラスだったはずだ。


 それなのにどうしてあんなところに一人でいるんだろうか。


「はい、じゃあテスト後ろから回収してきて」


 まるで何かに引き寄せられるようにそちらを見つめていると、現代文の担当である渋谷先生の声で僕は現実に引き戻された。


(気になる……)


 別に大した理由なんてないのかもしれない。高校生なんていつだって授業をサボってどこかに抜け出したい年頃だ。鳴海さんだってそんな日があるに違いない。それがたまたま今日であり今だっただけだ。


「それじゃあ、次の授業はこのテストの解説からスタートしていくよ。絶対に間違ったなって自信のあるところはみんな復習してくるように」


 テストの回収が終わると、それだけ言い残して渋谷先生は教室を去っていった。


 授業終了を告げるチャイムが鳴ったのはそれからすぐのことだった。


「一樹、テストどうだった?」


 テストが終わるとすぐにカズが僕のところにやって来た。


「ボチボチ……ってところかな?」

「お前の現代文のボチボチは当てにならん」

「なんだよそれ」


 そういうとカズは小さく笑って見せた。


「そういえば、昼飯どうする? いつも通り購買にパンでも買いに行くか?」

「……それなんだけど」


 どうしても気になることがあった。すぐに行けばもしかしたら間に合うかもしれない。


「ごめん、今日は一緒に昼ごはんは食べられそうにないや」

「用でもあるのか?」

「ん、ちょっとね」


 カズはそれ以上何も尋ねてこなかった。まぁ、元々友達は多い奴だ。僕なんかとじゃなくたって有意義な昼休みを過ごせるに違いない。


 それよりも、だ。急がないと居なくなってしまうかもしれない。


 人ごみを縫うように駆け抜けると、僕の足は東棟の3階へと一直線に向かっていく。


「失礼しまーす」


 目的の教室には案外すんなり辿り着いた。鍵は開きっぱなしになっていて、一歩室内へ足踏み入れた瞬間にツンとした絵の具の匂いが鼻を付く。


 東棟には文化部の部室をはじめ多くの専門教室が並んでいる。その中の一つ、教室の入り口に掲げられているプレートには『美術室』という文字が書かれている。


 教室には電気がつけられておらず、室内はぼんやりと薄暗い。


 僕が彼女を見かけたのは窓際の方だ。ちらとそちらに視線を移すと、そこに誰かがいるのが眼に入った。


 しかしその人物が身に着けているのは女子生徒の制服ではなく、僕と一緒の男子生徒の制服だ。そしてその人物に僕は確かに見覚えがあった。


「あれ、立花か?」


 その人物は僕を見るなり驚いた顔でそう呟いた。


「久しぶり、仁科君」


 仁科奏佑にしなそうすけ。僕の隣の2-Aの生徒で、そして何より志津川さんの想い人。


 相も変わらず整った顔をどこか残念そうに歪めつつ、彼は気の抜けた声で僕に「おう」と手を振った。


「仁科君、こんなところでどうしたの?」

「どうしたのじゃねぇよ。立花こそいつから美術部員になったんだ?」


 僕がボランティア部であることはなぜか有名な話だ。僕自身それを公言した記憶は一切ないのだが、恐らくあのとんちき部長が僕の名前を使って営業活動に勤しんでいるせいだろう。


「僕は今も昔もただのボランティア部員だよ。ほら、僕が絵に心得のあるような男に見える?」

「確かに。一年の時の校外学習で立花が書いた虫の絵、俺いまだに夢に出てくるもん」

「そんなひどい絵を描いたつもりはなかったけど」


 僕と仁科君は一年時の校外学習で同じ班になったことがある。そこで出た課題で僕が班のイラスト担当になったのだけれど、あまりのひどさに僅か10分で解雇されたことは記憶に新しい。


「そういう仁科君こそ芸術に目覚めた訳じゃなさそうだけど?」


 さて、ここからが本命だ。


 まさかこんなところで突発的に彼に出会うとは思っていなかった。しかしこれも何かの縁だ。せっかくだから聞けることは聞いておこう。


「ここには人を探しに来たんだよ」


 そう言って仁科君は隠すことなく自身の目的を吐いた。


「人?」


 それが誰かなんてのは見当がついている。しかしそれを悟られないように僕はいかにも分からなさそうにそう尋ねる。


「さや、じゃなくて、鳴海さんだよ」


 こいつ、今女の子の名前を下の方で呼びかけたな。さすが、モテる男は知り合った女の子をすぐにそう呼べちゃうんですね。


「鳴海さんって、あの鳴海さん?」

「どの鳴海さんかは知らないけど、鳴海って名字の知り合いは彩夏さやかしか知らないよ」


 いや、結局呼ぶんかい。さっき誤魔化したのは何だったんだよ。


「親しいんだね」

「そんなんじゃないさ。たまたま知り合っただけ」

「たまたま知り合った女の子をわざわざ昼休みに探しに来るとは思えないけど」


 どうやらクリティカルヒットだったらしい。仁科君が露骨に苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべた。


「立花、お前こそ何がしたいんだ?」


 僕が何かを探っていることに彼は気づいたらしい。どうやら顔が良いと頭の回転も良くなるらしい。


「それが良く分かってないんだよね」

「はぁ?」

「だからこうしてあちこち動き回ってるのかも」


 それは本当だ。僕自身、志津川さんとの計画のためにどう動いていいのか分からない。だからこうして何かきっかけになりそうな場所に足を運んでいる。


「はぁー、ボランティア部を敵に回すと怖いって柚子が言ってたのはこのことか」


 何かを観念したかのように仁科君は一つ大きくため息を吐いた。


 いや粟瀬さん、仁科君に一体どんな風に僕らのことを吹き込んだのさ。


「とにかくこうしてんのもあれだ」


 そう言って仁科君は僕に席を一つ差し出した。


「少し話そうぜ。俺も、誰かに聞いてもらった方が気が楽だ」


 イケメンと同席するのも何かの縁だ。僕は誘われるように彼が差し出した椅子へと腰を下ろすのだった。

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