第6話 君の香りととんちき部長

「そう言えば、志津川さんが最初に好きになった負けヒロインっているの?」


 それは些細な雑談がきっかけだった。


 放課後、僕らは相も変わらずボランティア部の部室に集まって作戦会議と洒落こんでいた。まぁ、それも全く進展せずに結局こうして雑談の時間に成り下がってしまった訳なんだけど。


「私が最初に好きになった負けヒロイン……」


 僕の質問に、志津川さんは僅かに考え込むような仕草を見せる。


「立花君はキミケツなんでしたっけ?」

「うん、璃子ちゃんが僕の最初の負けヒロインだよ」


 『負けヒロイン』という概念が生まれたのはいつの頃だろう。僕はその辺のオタク文化的な歴史に詳しくはないけれど、とかく主人公と恋仲になれないヒロインを総括してそう呼ぶ文化がいつの間にか生まれていた。


「そうですねぇ。最初に特別な感情を抱いたのは「竜騎士戦記」のトマリ姫でしょうか」

「竜騎士戦記……?」


 そんな漫画があっただろうか。


「あれ、立花君の小学校の図書館にはありませんでしたか?」

「小学校の図書館?」

「ええ、ハードカバーの大きな竜が書かれてる装丁の本なんですけど……」


 思い出した。あったなそんな本。


 僕は読んだ記憶はないけど、読書家のクラスメイトが重そうなその本をランドセルに詰め込んでいるのを何度も見たことがある。


「ま、また随分マニアックなところから来たね……」

「言われてみればそうかもしれませんね」

「僕は読んだことが無いんだけど、ちなみにどんなお話?」

「えっと、竜の背中に乗って戦う冒険者、通称竜騎士の男の人が主人公で、魔族に襲われている国の軍を率いて魔王と戦うお話です」


 ふむ、結構ベタだな。でも子どもの頃に触れるファンタジーなんてそれぐらい王道な方が良いに違いない。


「ちなみにそのトマリ姫というのは?」

「あぁ、この国にはティアナ姫というお姫様がいるのですが、トマリ姫はその妹君です」

「あっ……」


 思わず声が漏れてしまった。もうそれ以上言わなくても分かる。


 主役である竜騎士さんの本命とやらは間違いなくそのティアナ姫だ。うーむ、姉と同じ人を好きになってしまうヒロイン。確かにこれまでいっぱい目にしてきた。


「心から慕う姉と同じ人を好きになってしまう……。これはある種魔族に襲われるよりも悲劇なのかもしれません。しかし、しかしですねっ!」


 おっとここで志津川さん、エンジンがかかってきたな。爛々と輝く目つきからは熱い思いが滲み出ているのがすぐに分かる。


「そんな淡い恋心を押し殺しながら、トマリ姫は姉と国のために尽くすのです。もうこれはたまらんですよっ!」

「志津川さん、漏れてる漏れてる。オタクが漏れてるから」

「おっと、失礼いたしましたっ。と、とにかくですね、戦地に赴く騎士様とそれを見守るティアナ姫、その背中を彼女はどんな気持ちで見つめていたのだろう、と幼い私は思った訳なのですよ。心がどうにかなりそうでした。でもそれがなぜか心地よくて……」


 分かる、分かるよ志津川さん。


 負けヒロインに感情移入すると心が訳わからない状況に置かれてしまってバグるんだ。それがなんというか……快感なんだよね。


「それ以来、ですね。私が負けヒロインというものを気にかけるようになってしまったのは」


 これは随分と沼が深い……。まぁ、僕も激しく同類なのだけれど。


「負けヒロインが好きな人種は基本的に精神的なマゾヒストなんだよ」

「立花君、それは過激派では……?」

「あー、ちょっと言い過ぎたかも。でもどちらかというと、僕らはそっちのパターンでしょう? ってこと」

「パターン……?」


 負けヒロインを好きになるパターンには大きく分けて2種類存在すると僕は考えている。


 一つ目は、好きになったヒロインが負けヒロインになってしまったパターン。


「あぁ、確かにそういう方はいらっしゃいますね」

「でしょ?」


 前者については偶然の産物だ。見た目や性格が好きな子がたまたま作中でその役割を担うことになってしまった。そうなった場合、完全にご愁傷さまとしか言いようがない。


 物語の中で報われない存在になってしまった女の子。だがそれでも、と惚れ込んでしまったその子を愛し続けることを僕はオタクの在り方として尊敬している。


「それで、もう一つのパターンというのは?」


 もう一つは、負けヒロインだからそのヒロインを好きになってしまったパターン。問題なのは後者だ。


「僕らはこっちのパターンだよね」

「その、それはダメなのでしょうか?」


 ダメ、というと語弊があるが、端的に言ってしまえばこちらの方が厄介極まりない。なぜならば、このパターンは負けヒロインを積極的に好きになろうとしてしまうからだ。


 オタクコンテンツ、特にラブコメや青春モノにどっぷりと肩まで浸かってしまう


「あぁ……。確かにありますね、それ」

「だよね」


 分かるのだ。分かってしまうのだ。


 あぁ、この子いずれ主人公の事を好きになっちゃうんだろうなぁ……って女の子の臭い。それを敏感に感じ取ってしまう嗅覚。


 ヒロインの気のいい友達? 違う違う。その子、いずれ主人公を好きになっちまいますぜ。


 テレビで最近話題のアイドル? 違う違う。その子、なぜかクラスに転校して主人公を好きになっちまいますぜ。


 主人公の妹? 違う違う。その子、実は血が繋がって無くて主人公を好きになっちまいますぜ。


 エトセトラエトセトラ。


 ある、あるのだ。名前と顔が分かった瞬間、瞬時にその臭いが鼻腔をくすぐる。そうなってしまったらもう手遅れ。その子のことが胸の奥から離れてくれない。

 

 彼女の苦しみに胸を痛め、彼女の悲しみに共に涙を流す。そんな精神的マゾヒスト。その子が報われないと分かっていながらその動向から目が離せない。それが僕ら負けヒロインに心縛られし者たちである。


「そうですねぇ、確かに私もその匂いが分かっちゃうタイプかもしれないです」

「…………あぁそうか」


 ふと、僕の口から意図せず言葉が零れた。


「どっ、どうしたんです立花君」


 なぜ僕が志津川さんの突拍子もない相談事に悩みもせずに食いついたのか。その理由を僕はたった今自覚した。

 

 志津川さんからは、確かに彼女達と同じ雰囲気を感じるんだ。決して実ることのない恋心という名の淡い果実の匂い。甘くて、酸っぱくて、それでいて何よりも切なさを感じるその果実の匂いを、あの瞬間に僕は志津川さんから確かに感じ取ってしまっていたんだ。


「や、そのっ、なんでもないよ」

「ならいいんですけど……そんなに熱い視線で見つめられると流石に……」


 僅かに頬を赤らめる志津川さん。


 室内には何とも言えない妙な沈黙が流れている。うん、今のは露骨に見つめた僕が全面的に悪い。


「そ、それで志津川さんっ!」


 気まずい空気を何とかしようと僕が声を発した時だった。


 ガラリと景気のいい音を立て、ボランティア部の扉が開かれた。しまった、話に夢中になりすぎてたせいか廊下の足音に一切気が付かなかったようだ。こんな場面を誰かに見られてしまったらあらぬ誤解を受けてしまう。


 僕がこの状況をどう誤魔化したものかと咄嗟に思案したその時だった。


「……おりょ、もしかしてお邪魔だったかな? にししっ」


 扉の先、そこに居たのは一人の女の子だった。


 身長は僕より一回り小柄。一見すると中学生にも小学生にも見えそうなその幼げな容姿はとても僕より一つ年齢が上とは思えない。


「……今日はいらっしゃったんですね、先輩」

「まぁな、いっくん」


 呆れ声の僕に対して、志津川さんは困惑の色をその顔から隠せずにいる。


「えっと……」


 そういえば志津川さんが彼女に会うのは初めてか。


 そう、彼女こそが――


「やぁやぁ、可愛いお嬢さん。私こそがこのボランティア部の偉大なる現部長、みったんであるっ!」


 僕の言う、とんちき部長その人である。


「気軽にみったん先輩って呼んでくれよっ!」

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