スプリング・スプリング・スプリング #01

 母のお腹にいた頃、三組の夫婦が離婚の危機を迎えた。両親の初子、両家の祖父母の初孫、九人の叔父と叔母の初めての甥か姪。家族みんな喜んだ。みんな仲良しだった。

 そして誰が言い始めたのか母のお腹に「ハジメちゃん」と呼びかけていたらしい。そう言われればそんな記憶があるような気もする。あったかい夜空にいた私は優しく撫でられていた。間違いない。

 子供の性別は楽しみにとっておいて「ハジメ」の表記を決める会議が度々開かれた。始、初、創、一、肇、はじめ、ハジメ…色んな意見が出た。出すだけ出して決まらない。徐々に母と父、二組の祖父母の六人が険悪になった。特に夫婦間はひどいもので子供が誕生する前に別れてしまう勢いだったらしい。関わりたくない叔父もいれば仲を取り持とうとした叔母もいた。

 そんな話を遊びに来ていた二人の叔父から聞いたのは五歳の夏。小学校に入る前だ。二人は他愛のない思い出話のつもりだったんだろうけど、そんなこと初耳である私には衝撃だった。過ぎたことだと思いもせず、いたたまれなくなって人知れず家を出て河川敷へ向かった。幼心に一人で物思いにふけるならここだと思ったのだろう。電車が橋を通るのを見るのが好きで散歩コースに入れてもらっていて家から河川敷への道はばっちり覚えていた。

 河川敷に着いて階段を下りる。犬の散歩には早い時間だった。暑くて人は少ない。ランニングや自転車で颯爽と過ぎて行く人はいた。走るのが遅くて自転車にも乗れない私は階段の下でしゃがんでその速度を見ていた。私も大人になれば人並みに走れるようになれるだろうか。自転車に乗ってどこへでも行けるだろうか。そんなことを考えていたら涙も引っ込んで親たちがいがみ合っていた過去などどうでも良くなった。今は問題ないんだからそれでいいと納得できた。

 炎天下で何もせず座り込んでいても暑いだけだった。もう帰ろうと河川敷の階段を上った。汗をかいていたんだろうな。すぐ大きくなるからって少しサイズの大きいサンダルを履かされていた事実もある。かかとがサンダルから落ちると私の体ごと階段の一番下まで落ちた。Tシャツと半ズボンから出ている体中擦り傷だらけになって私は泣いた。

 だけど誰にも「大丈夫?」と言われない。走ってる人も自転車に乗っている人も全員通り過ぎて行った。知らない世界に放り投げられたようだ。ここが両親と三人で住んでいる木造平屋建ての我が家とか祖父母の家だったら誰かしら大慌てで飛んできて起こしてくれる。ぐずぐずと自力で立ち上がればドロリと鼻血が出て驚いて大泣きした。また転げ落ちないように慎重に階段を上る。輝く太陽、青い空、白い雲、緑の芝、鳴くセミ、泣く血まみれの子供。カラフルで元気な夏だった。


 泣きながら私は佐己小さきこさんの家へ歩いた。佐己小さんは近所で一人暮らしをしてるおばあちゃん。両親が新婚だった時からお世話になっていてよく遊びに行っている。家族ぐるみの付き合いをしていて、二人の祖母は佐己小お姉さまなんて呼んで慕っている。学生の頃を思い出す存在らしい。私にはおばあちゃんが三人いることになる。

 血も涙も鼻水も汗も垂れ流している私を見て佐己小さんが何を思ったかわからない。驚いていたかな。またかって冷静だったかも。私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。傷を全部確認して消毒と絆創膏を貼ってもらった。

「鼻血も止まったしもう大丈夫。擦り傷、お風呂で痛いと思うけどちゃんと汗を流すんだよ」

「………」

「あなた、今日は黙って一人で遊びに行ったの?禁止されてるでしょ?外に行きたい時は誰かと一緒って。それに今の季節は帽子を被るようにも言われてたね」

「………」

 事実を述べられてまた泣いた。責められてる気になって反論するように名前の漢字の話をした。自力で解決したのにまた掘り返した。あまりはっきりとは覚えていない。でもあんなに仲のいい両親、祖父母たちが大喧嘩したとは信じたくなかった。しかも私の名前のせいで。そしたら佐己小さんは教えてくれた。

「あったね、そんなこと。懐かしい。あなたのはじめって漢字は佐己小さんが決めたんだよ」

「ほっ、ほんとー!?」

「本当だとも。これから子供が生まれてくるってのにあんたのおかあちゃまたちは意固地になってた。大切な名前だから一生懸命決めたいのは理解できるんだけど」

「どうして佐己小さんがきめてくれたの?」

「親族でもないのにね。もっと揉めてしまうかもって考えもしたんだけど提案してみたらコロッと決定したね」

「なんで今の字にしたの?」

 まだ五歳だった。漢字なんて一個も知らない。自分の名前の意味も知らない。興味津々だ。

「あなたの漢字には祝いって意味があるんだよ」

「いわい…?」

「嬉しいことをみんなで喜び合ったの。あなたが産まれてきて幸せだなって。そんな名前」

 喜び。幸せ。

 常日頃から私は家族から「大好きだよ」と言われ慣れている。五年間、その言葉が積み重なって小さい私はできていた。だけど新鮮な少し難しい響きたちはそれよりもっと大きな階段を何階も駆け上った気分にさせた。


 私の名前を初見で読めた人は今まで一人だけ。小学一年生の時にペアを組んだ六年生のお姉さん。哲学をかじっていると言っていた。あの頃は「哲学」も「かじる」も意味が分からなかった。今思えば年齢以上に頭がいい子だったんだ。ずっとかっこいいと思ってた。六年生になれば私もこうなれるって信じたくらい。

 お姉さんが卒業する前に書いてくれた手紙でも私の名前を褒めてくれた。当時のお姉さんの年をとっくに過ぎた今もまだすぐに見返せる場所にしまってある。

 絶賛してもらえたこともあれば馬鹿にしてくる子もいた。こっちのが圧倒的に多い。

「お母さんがお前の名前読めないって言ってた!変な名前!」

 自分の親の無知を恥じず、親の言うことを真に受けて馬鹿にしてくる。かわいいもんです。今ならお馬鹿さんだねってお姉さんぶれる。

「変じゃない!読めないなら覚えなよ!」

 小学二年生の祝ちゃんはべそをかきながら怒ったものである。

 そういうわけで、なかなか正しく読んでもらえない名前だけど私はそこも含めて自分の名前が好き。祝福された第一子。おいわいちゃんなんて呼ばれることもあるけど訂正する。長山祝にあだ名をつける人は私の許しが絶対に必要なんだ。

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