第7話

 コーヒーはもうとっくに温くなっていた。

 鏑木が店を後にしたところで、瑞穂もホテルへと帰っていった。

 那衣はどうするの、と訊ねられたが、もう少しここに残ると告げた。鏑木の衝撃から気が抜けて、しばらく動きたくなかった。

 あいつ性格悪過ぎだろ、と那衣は胸中で毒づいた。勢いでお金を用意すると宣言したが、自分の貯金は100万前後ほどしかない。ここで100万しか用意出来ませんでしたなんて言ったら——

 鳥肌が立つ。考えたくもない。


「ねえ、あなた」

「はい、ごめんなさい。お金は必ず…」


 ふいを突かれたため、顔の分からない相手に反射で謝ってしまった。

 顔を上げると、1人の女性が那衣の横に立っていた。女性は口に手を当てて、

「何か謝ることをされたかしら」

と優しく笑みを浮かべていた。


「いえ、すみません。独り言です。気にしないで下さい」


 慌てて首を振った。恥ずかしかった。

「ご一緒しても」と女性は向かいの席を指差した。どうやら相席したいとの意味らしい。


「どうぞ」


 何も考えずに答えてしまった。

 女性は向かいの席に付くと、注文もせず、唐突に質問を投げかけてきた。


「あなた、彼氏はいるの」

「い、いませんけど…」

「じゃあ、好きなひとは」

「…特にはいませんが」


 女性の顔が、ぱっと明るくなった。直後に那衣の不審な目つきに気づいたのか、

「いきなりごめんなさいね」

と横に置いたバッグの中から名刺を取り出した。

 差し出された名刺には、株式会社サンイース 営業技術本部 デジタルマーケティング課 課長 新條 美雪 と書かれていた。

 聞いたことがない会社だった。北海道の地元企業だろうか。


「それでね、あなたにお願いがあるの」


 新條はいつのまにか注文していたカップに口を付けたあと、話を切り出した。


「いまうちの会社で、あるアプリのテスターを募集しているんだけど、そのテスターの集まりが悪くてね。あなたにテスターを引き受けて欲しいの」

「なぜ見ず知らずの私に」


 新手の悪徳商法なのではないか、と那衣は警戒していた。旅行先で詐欺に遭うなんて、洒落にならない。


「そうね。順を追って説明してから、答えることにするわね」


 新條はバッグから、新しく資料を取り出して、卓上に広げた。


「今度うちの会社が、ある企業の開発したアプリを買い取ることになったの。アプリ名はアフィニティノート。俗に言うマッチングアプリね」

「アフィニティノートをですか」


 食い入るように体を前のめりにして、那衣は声を発した。まさかアフィニティノートの名前が出てくるとは考えもしなかった。

 テーブルに広げられた資料を確認するが、正真正銘那衣が使用しているアプリのことをさしているのがわかった。


「元気がいいね。もしかして使ってたりするのかな」

「使ってるもなにも…」


 那衣は体を引いて、背もたれに体重をかけ直した。いままさにそのアプリのせいで、こんなにも悩んでいるのだが。

 無言の那衣から、返答を待たずに新條は話を続ける。


「アフィニティノートを買い取ることは、ほぼ決まりの流れで話が進んでいるんだけど、1つ上が気にしてることがあってね。それを調査するのが私の仕事ってわけ」

「その仕事って」

「偽客(サクラ)の調査よ。聞いたことあるんじゃないかしら。運営サイドにお金を貰って、利用者になりすまし、あたかも盛り上がってるようにみせる人達のことよ」

「聞いたことあります」

「そのサクラがね。アフィニティノートの中にも、いるんじゃないかって上が疑っているの」


 新條は大きくため息吐いた。


「嫌になるわよね。上の気まぐれに付き合わされて、こちとら残業祭り。挙げ句の果てには、課内の人間は続々とリアイア。残ったのは、課長という役職を与えられた責任感のみで働いているこの私だけ」


「お気の毒です」と言ってから、温さすら無くなったコーヒーを那衣は喉に流し込んだ。直後、嫌な予感がした。新條に顔を向けると、その目は燦々としていた。


「そこで、あなたを見つけたの。さっきの見てたわよ。強面の男性に、お金用意しますって啖呵切ってたところ。痺れたわ」

「ちょっと待ってください」

「待たないわ。ねえ、サクラ探し一緒に手伝ってくれないかしら。あと候補のアカウントは40人ほどしかいないの。2人で手分けすれば、20人ずつで終わるわ。お願いよ、後生だから」

「嫌ですよ。帰ります」


 急いで立ち上がり、席を離れようとしたが、新條は那衣の手首を掴んできた。


「お願い、本当に困ってるの。会社にとっても、デリケートな時期だから派手にネットで人員を募集することも出来ないの。報酬は弾むわ。課内のプロジェクトがいまリソースいなくて、ほぼ止まってるから、課内の予算使い放題よ。調査協力費って名目で湯水の如く使えるわ」


 那衣はピクリと動きを止めた。


「もしかして、足元見られてますか」

「200万円を用意する当てはあるのかしら」


 鏑木との会話を、新條は聞いていたのだ。新條は得意げな表情を露わにした。


「私、沖縄から旅行に来てるだけなので無理ですよ。普段は仕事もありますし」

「出来るときで、構わないし。通常はアプリ上でやりとりして貰うだけだから大丈夫よ。もし実際に相手と接触するようなら、移動費も持つわ」


 思ったよりも好条件だ、と那衣は決して表情には出さないが内心浮かれていた。これで引き受ければ、鏑木への支払いの算段がついたことになる。アフィニティノートが絡んでいることも少し気になっていた。

 だが新條への警戒は完全には薄れてはいなかった。


「手付け金として、即金200万。後払いで100万払って頂けるなら引き受けましょう」


 新條は目を丸くしていた。その後、吹き出した。


「足元見られる立場なのに、逆に金額上乗せして吹っ掛けてくるなんて。どういう神経してるの。やっぱり面白いわね、あなた」


 お腹痛い、と新條は笑いこけている。気付けば手首を掴んでいた新條の手は離されていた。


「で、条件は呑んで貰えるんですか」


 冷静に振る舞いながらも、那衣の心中は穏やかではない。緊張で声が上擦らないように努めた。

 ひとしきり笑い終えた新條が、ペンと紙を取り出す。


「OKよ。すぐに支払うわ」

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