堕ちた天使
第1話
カランカランと小気味良い音を立てながら、秋穂は扉を押し喫茶店に入った。
来客を知らせる鐘の音を聞いた壮年の店主はこちらに振り向く。彼はカウンターでコーヒーミルを引いていた手を止め、柔和な笑顔を浮かべながら「いらっしゃいませ」と恭しく頭を下げる。
秋穂は店主に会釈を返し、店の奥へと向かう。店の一番奥、窓際の席が秋穂のお気に入りだ。椅子に腰を下ろすと、エプロン姿の若い女性店員が水の入ったグラスをお盆に乗せてこちらに来た。彼女は秋穂の前にグラスを置く。
「ご注文は、いつものモーニングで?」
「ええ」
女性店員は端末に注文を入力した後、秋穂に顔を近づける。
アルバイトである大学生、大島明奈は人の懐っこい笑みを浮かべる。
「櫂塚さん、最近は店に来てなかったですよね。どうしたんですか?」
「最近、仕事がとんでもなく忙しくて。やっと昨日片付いんだよ」
「そんなに大変だったんですか?」
「そりゃもう。とあるお客さんが我儘、じゃなくてこだわりの強い人で。それで連日残業、休日出勤。昨日、やっとそのお客さんに納得してもらえたよ」
「どうりで。随分お疲れに見えましたから」
「実は今朝も別の仕事があったよ」
「え! こんな朝早くからですか?」
「ウチでは機械天使の点検・修理をサポート契約していて、その対応。お客さんができるだけ早くって。それで今日の朝にね。まあ、それほどウチの天使を大事にしてるってことだけど」
「まあまあ、大変ですね」
明奈は口元に手を当て、鈴を転がすような声で笑う。
この店の看板娘である彼女は、とにかくおしゃべりが大好きで、こうやってよくお客さんと話している。もし大手チェーン店なら「無駄話をせず、とっとと注文を厨房に伝えろ」と怒られるだろうが、店主は特に注意しない。この店は客との縁、繋がりを大切にしており、積極的に客と会話するべきだと考えている。以前、店主に聞いた話だが、彼女の人当たりの良さを好み、足を運ぶ客が多く、店の売り上げに貢献しているらしい。
「では、櫂塚さん、モーニングすぐにお持ちしますね」
「よろしく」
明奈はペコリと頭を下げ、マスターに注文を伝えに行く。
秋穂は右手で頬杖をつき、窓の方を向く。
最初に目に入ってきたのは、窓に反射する自分の顔。
目の下には濃いクマができており、もともと癖の強い髪はボサボサになっている。秋穂の年齢は25歳でまだ若い分類に入り、顔も童顔と言われるが、今はだいぶ老けて見える。子供の頃、こんなおっさんにはなりたくはないなという顔がそこにはあった。自分のやつれた顔をこれ以上見るのが嫌になり、秋穂は窓の外に視線を移す。窓の外では桜の花びらが舞い、真新しいスーツに着られた男性と、早朝の休日練習に向かう中学生、子供づれの家族が通り過ぎる。
春といえば、新しい生活に胸を踊らせる季節。一年前に大学院を卒業し就職した秋穂も、当時はどんな仕事が舞い込んでくるか楽しみにしていた。だが、今の秋穂にあるのは疲労と仕事からの開放感のみ。
社会人とは、たった一年でこうも擦れてしまうものなのか。
秋穂は新人の頃のフレッシュな気持ちを幾分か取り戻そうと、窓の外の初々しい人々、光景を眺める。
「櫂塚さん、お待たせしました」
ぼうっと外を眺めていると、明奈がトレーを運んできた。テーブルの上に熱々のコーヒーと、フレンチトースト、シーザーサラダが置かれる。フレンチトーストの焼きたての香ばしい焼き立ての香ばしい匂いが鼻に届き、思わず食指が蠢く。
明奈は「では、ごゆっくりどうぞ」と伝票を残していった。
「では、いただきます」
胸の前で一度手を合わせ、フォークとナイフを手にもつ。フレンチトーストをナイフで一口大に切り分け、口に運ぶ。
うん、美味い。やはりこの店のフレンチトーストは絶品だ。
あっという間にフレンチトーストとサラダを平らげ、コーヒーを一口。コク、苦味、甘味がバランスよく、アロマの香りが鼻を抜ける。流石、マスターがわざわざ海外の原産地に足を運び、こだわり選んだ豆だけはある。
秋穂はカップを置き、店内を見渡す。黒を基調としており、年代物の蓄音器からはジャズが流れている。店内では上品なマダム達は話に華を咲かせ、時折笑い声を上げる。うまくフォークが握れず何度も落とす幼い女の子に、両親は笑いながら握り方を教える。
秋穂はこの落ち着いた、そして人情味溢れるこの店の雰囲気が大好きで、大学からこの店に通い詰めている。
「本日は、エウレカ社の本社に来ています」
秋穂が店内のテレビに視線を向けると、ローカルのニュース番組が流れており、地元出身の女性アナウンサーが映っている。
「それでは早速話を聞いてみましょう」
アナウンサーの移動に合わせてカメラが動き、巨大な工場らしき建物が映像に入る。工場の前には作業着姿の六十代と思わしき男性。彼の前には十人ほどの幼い子供達が並んでいる。
「こちら、エウレカ社の社長、大槻さんです。本日は取材に応じていただきありがとうございます」
男性は「いえいえ」と人の良い笑みを浮かべている。頭髪と眉毛はすっかり白く染まっているが、体格が良く背筋は伸びている。老紳士という言葉がぴったりの人物だ。
彼の名前は、大槻明宏。機械天使を世界で初めて製造販売し、零細企業だったエウレカ社を世界に名だたる大企業に成長させた張本人だ。
「こちらこそ、この記念すべき日に取材に来て頂いてとても感謝しています」
「大槻さん、もしかしてこの子達が」
「はい、そうです。今日、エウレカ社から巣立つ新しい天使達、ガブリエルタイプです。ほら、皆さんに挨拶を」
大槻が促すと、子供達はカメラに向かって笑顔で手を振る。
「大槻さん、この子達は今までの機械天使達とどう違うのでしょうか?」
「最も大きな違いは搭載されている人工知能です。今までの天使達は性格が決められており、大きく変化することはありません。一方、ガブリエルタイプは周りの人間の言動、接し方によって、性格が形成されていきます」
「つまり、周りの人間が分別ある行動を取る必要があると」
「その通りです」
秋穂はすごいなあと感心。それと同時にまたウチの会社と差が開いてしまったと焦りを抱く。
技術者としてのライバル心を燃やしていると、胸ポケットのスマートフォンが振動。確認すると、相手は雨宮と表示されている。秋穂が所属している会社の社長だ。
休日に連絡をするとは、珍しいな。
何かあったのかと怪訝に思いながら、電話に出る。
「はい、櫂塚です」
「櫂塚君、今大丈夫かい?」
電話の向こうから聞こえてきた男性の声には、焦燥が感じ取れた。
秋穂はすぐに頭を仕事モードに切り替える。
「何か、トラブルが発生しましたか?」
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