11 日常

 もう朝晩など風がひんやりする季節だった。


「珍しく私に起こされなかった」


 チャコはにこやかに笑っている。その笑顔が朝の光に溶け込み、さわやかな風となって俺の心をつかむ。


「毎日が満たされているからね」


 俺のにこやかな笑顔から出る言葉に、チャコは少しだけはにかんで目を伏せた。

 そして自然と腕を絡ませる。シャンプーの香りだろうか、俺の至近距離にあるチャコの髪から甘い匂いがする。

 すぐに表通りに出てバス停まで歩く。

 バスはすぐに来た。駅から大学までの直通バスで、途中から乗る人はほとんどいない。車内は俺たちと同じ大学の学生でぎゅうぎゅうに詰まっている。自然と車内でもチャコは俺と体を密着させる形となった。

 こうして大学までの十七分間、この体勢なのは毎朝のことだ。

 同じ学部で同じ専攻だから、チャコとはほとんど同じ時間を共有している。

 こんなねんがら年中ねんじゅう一緒にいてよく飽きないなという友人もいる。その言葉の裏には羨望が見え隠れしているけれど、俺たちは別に自慢などしていない。

 俺たちにとって自然の状態でいるだけだ。

 最近知り合った友人などは、執拗に俺たちの出会いとか付き合い始めたきっけとかを知りたがる。


「別にどちらもコクっていないし、付き合ってほしいとも言っていない」


 そんな説明には、なかなか納得してくれない。でもそれが本当なのだから仕方がない。

 俺たちは付き合い始めてはいない。でも今は、付き合っている。そんな状況をどう説明したらいいのか?


「いや、どちらかから付き合おうという話が出たことはないけど、でも気が付いたらチャコは俺の隣にいた」


 それを聞いた友人は呆れた顔をする。それも笑って冷やかしてくる。

 そのうちに授業が始まる。

 だから俺とチャコはいつも一緒にいるからといって俺たち二人だけの世界を作っているわけではなく、ほかの友達とも自然に接して毎日の日常を過ごしていた。


 そう、これが日常なのだ。


 今、日常がある。俺とチャコも、そして俺の周りにいるすべての人々もありふれた日常を過ごしている。

 大学の友人たち、そして同じ授業を受けている学生たち、道行く人たち、近所のコンビニの店員、バスの運転手、アパートの隣の部屋の住人、近所の家の塀の上にいる猫、やたら吼える犬まで、みんながみんなそれぞれの当たり前の日常を暮らしている。

 その当たり前というのがどんなに尊いことなのか、俺もチャコも身に染みているけれど、あえてほかの人には言わなかった。

 地球にとって今のこの日常は、もしかしたらなかったかもしれないのだ。今の地球の日常があるのは、俺たち十二人がこのために命を懸けて奮闘した……それは俺たち十二人と、そしてもう一人、あの婆様だけが知っていることで、全世界八十億の人びとは全く知る由もなく自分たちの日常を過ごしている。

 何ごともなく、そして何ごともなかったかのように。

 もちろん、それでいい。彼らは知らなくてよい。知らせる必要もない。昔から今まで当たり前にこの日々が続いてきたと思っていればそれでいい……俺もチャコも、そしてほかの仲間たちもみんなそう思っている。

 何ごともない……それがいちばんの御守護でありいちばん尊いことなのだ。


        ※      ※      ※


 あの晩、天応山の山頂で肉体に戻った俺たちは、時計を見ると今度は三十分ばかりが経過していた。以前のときのように、肉体を離れたその瞬間に戻ってはいなかった。

 だが俺たちはもう、現界的にはこの三十分の時間の間になすべきことは皆果たしたということを互いに確認し合い、帰途に就いた。

 昇ってきた道なき道はもう暗くなってからはさすがに危険なので正規のハイキングコースを下山し、駐車場の営業時間ぎりぎりになんとか車を出した。

 チャコと美貴をそれぞれの自宅に送り、その日のうちに俺たちは悟君の寺まで帰った。

 帰ると、なんと行方不明になっていたはずの婆様がいた。

 しかも、珍客と一緒だった。見知らぬ中東の人々、その顔を見てエーデルさんは度肝を抜かれていた。

 自分たちスメル協会の活動を阻害しようとしていたイルグン・レビの人たちだという。さらに珍客はもう一人、あのハッピー・グローバル教団の城田佐江代表だ。しかも彼らは俺たちが帰ったときには、まるで旧来の知己のようにすっかり打ち解けて、大声をあげて談笑していたのである。

 さらには、スメル協会のミズラヒ最高司令とビットン副官もその談笑の輪に加わっていた。

 どう考えても不思議な光景だった。

 俺たちが帰ると婆様は笑顔でここにいる人たちを俺たちに紹介した。城田佐江など立ち上がってにこにこして俺たちに挨拶した。

 だが、へとへとに疲れていた俺たちは、とりあえずその日は眠った。


 翌朝、自分の部屋で寝ていた悟君は、俺たちが雑魚寝している大部屋へと血相を変えてやってきた。


「テレビを見てみましょう。大ニュースがやってますよ」


 俺たちはリビングのテレビの前に行った。

 けたたましく臨時ニュースが繰り返されていた。

 すでに開戦していた世界に二大大国ローシートゥ共和国とダブリートゥ合衆国の間で、突然和平交渉が行われ、あわや第三次世界大戦かといわれていた世界情勢は一晩で急速に鎮静化したという。

 しかもなんとテレビには、両大国大統領が互いに従来の友好を深めるという声明を発し、オンラインでにこやかに会談する様子も映し出されていた。

 そのほかに、わが国の近海での周辺諸国の緊張状態も一気に緩和し、世界は平和を取り戻したことを国連も高らかに宣言したという。

 総ての緊張と非常事態は収束したのである。しかも、たった一晩で。

 いっしょにテレビを見ていた婆様も、俺たち一人一人を見てにこやかに微笑んだ。

 ふと、拓也さんがつぶやく。


「これまでも過去に高度な科学技術文明が発達し、物質文明は頂点を極めようとしたことが何度もあったけど、その度に天変地異で滅んでまた一からやり直しでした。なぜならこれまでは、そこに愛と調和、慈しみの想念が伴っていなかったからです。これまでは水の眷属の統治の自在の世で、人類と御神霊とのつながりの糸も断ち切られていましたから仕方がないことです。そして今回も同じようなことなら、天変地異がこの科学文明を根こそぎ、今度こそは本当に根こそぎ、一切を無に戻してしまったでしょう。今回もその直前までいきましたけれど、あなた方の働きと国祖様のお出ましによってその大峠を越えて持ちこたえたのですよ、今回は」


「最後の天の岩戸開き」


そんな言葉が、俺の口をついて出た。もう後がなかったのである。

テレビでは戦争が終わったことに対する世界各地の喜びの声が映し出されている。


「なんだかさあ、昔に比べたらこんな地球の裏側のことまで瞬時にわかるし、オンラインで画像見ての通信もできるし、すごい時代になったって思ってたけど」


 美貴がぽつりと言った。


「神霊界ではとっくの昔にそうだったんだよね」


 俺たちはまだ、神霊界での体験の記憶が新しい。


「そうですよね」


 杉本君も言う。


「この世の中も今はどんなに遠くに離れていても距離を感じない時代。飛行機などの交通も発達して、昔の人が何年もかかって移動した距離を数時間で移動してしまいますし、世界のどんな場所での出来事もリアルタイムでわかりますし、情報を得るだけでなく自ら情報を発信することもできますからね」


 悟君も話に入る。


「それも今は二次元の映像だけでなく、3Dの動画で意思伝達もできるようになりましたけれど、神霊界では人類が創造されるずっと前からそうだったんですよね。最高の科学技術を有する世界だった」


「ただそれが」


 大翔も口を開いた。


「僕らの世界のような物質を使っての科学技術ではなく、想念だけですべてができてしまうのには驚きました。この世はスマホとパソコンがあればほとんど何でもできるけど、神霊界ではスマホもパソコンもなくても、空間がないだけに距離を越えての瞬間移動や遠く離れた場所との通信、自らの想念を3D動画にして相手に見せるなど、スマホやパソコン以上のことができてしまう世界」


「つまり」


 拓也さんがまた言う。


「この世で科学技術が発達するということは、物資としての機械を使って、神霊界にいかに近づくかってことなんですよね」


「そうですね。それが物質による神霊界の写し絵、地上天国文明の建設ということでしょう。でもそれらはあくまで横の働きで、そこに慈しみと感謝、愛とまことの大調和の想念という縦のみ働きと十字に組まないと本当の実での天国文明。十字文明にはならないのです」


 婆様はそんな厳しいことを言ったけれど、その顔はにこやかに微笑んでいた。

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