2 天使
ホール内は外よりもさらに熱気にあふれていた。あまりの熱気にホールの天井に水蒸気がたまって雲ができることもあるという伝説も聞いているが、今まで俺はさすがにそんな光景を実際に見たことはない。でも、それが事実であっても不思議ではないと思われるような状況だ。
各サークルでひしめき合う机の列の間の通路は、人とぶつからずに歩くのは実に困難だ。あまり立ち止まってじっくり見ることもできない。午後になったら少しは
田舎から三時間もかけて来ていたころはまだ初心者だったから隅から片っ端から見て歩いていたけれど、今はだいたい目当てのサークルを探して直行という感じである。三時間の長旅の後に会場にたどり着いたのでは入場時点でかなり疲れが出ていたけれど、今は下宿の最寄り駅からこの会場最寄り駅まで約一時間、しかも途中乗り換えなしの一本だ。
朝の開場時間に合わせて家を出ていたころは始発に飛び乗っていたのだけれど、今は大学の一限の授業のために家を出る時間よりちょっとだけ早くアパートを出て、開場時間前に優に間に合うのである。
俺は一通り目当てのサークルを回り、何度か一斉点検のアナウンスも耳にした。一般参加者はあまり気にしていないアナウンスだ。そのうち、
そろそろ昼食にしようかと思う。とにかく座りたい。ところどころにある休憩用のいすの争奪戦はすさまじく、地面に座るとスタッフが飛んでくる。だけど、会場内の混んでいるレストランに並ぶなどというような愚行はしない。
俺はいったん会場を出て駅の方に向かって歩き、右側のホテルが入っているビルの一階のコンビニでおにぎりをいくつかと飲み物を買い、出たところの喫煙コーナー近くの通路脇の座れるようになっている日陰にやっと座っておにぎりを口に入れた。
体中もう汗だくである。多分かなり臭いと思う。でも、かまってはいられない。
冷房の効いたところで食事なんてぜいたくだ。だが、今は風が出てきて、気温は高いけれど風に当たるので少しは涼しい。
しばらく休んでからまたふらふらした足を引きずって、俺は戦場へ向かう。
俺はこの会場に誰かと来たことはない。いつもボッチ参戦だ。その方が気楽でいい。
腰を上げた俺は再び逆三角砦に向かう階段を昇る。午後はもう全く並ぶこともなく、腕につけた入場証を見せればすいすいと入場できる。
そして西ホールの四階へ向かう外階段を昇って、企業ブースへと向かった。企業ブースはついでに行くようなものだけど、結局ここでも毎週見ているアニメのグッズ購入は欠かせない。同じイベントなのに同人誌即売会場と企業ブースではまるで空気が違うから不思議だ。でも、人々でごった返しているのとその熱気は何ら変わりはなかった。
一応南ホールの展示まですべて回って、さすがにそろそろ帰ろうと俺は西ホール外の屋上を歩いていた。そこはコスプレエリアで多くのレイヤーさんが集まり、それをカメラに収めるカメコと呼ばれる人々が列をなして撮影に興じている。
レイヤーさんの撮影は俺の目的ではないので、今しか見られないいろいろなコスプレを自分の目に焼き付けながら、そんな人々の間を歩いていた。
そんな時、ふと目に留まったレイヤーさんがいた。
天使……真っ白なストレートのロング・ウィッグ、そして古代ギリシャを思わせるような純白の衣装は、かなり短いスカートで、足も白のストッキングに覆われていた。
そして何よりもやはり白くて長い翼はとても作り物という感じではなく、まるで羽毛100パーセントという感じだ。
小柄な女子で、ウィッグのせいではっきりと年は分からないけれど、俺と同じくらいか少し若いかなと思う。俺より若いなら高校生だ。
ほかのレイヤーさんのようにカメコが列を作っているというわけでもなく、時々通りかかったカメコから撮影の要請があってその時だけ笑顔で応じているという感じだ。
俺は最初は通り過ぎようとした。なにしろもうかなり疲れていた俺は、帰路を急いでいたのである。
だけれども何か気になるところがあって少し立ち止まり、その天使の様子に注意を向けていた。あまりガン見するのもマナーに反するので、コスプレエリアのあちこちを眺めているというふりをして、その天使を時々チラ見していた。
何か懐かしさを感じたというのが、気になって立ち止まった理由だ。ただし、どこかで会ったことがあるというような既視感とは明らかに違う。間違いなく初対面の人である。それなのに懐かしさを感じるという不思議さが、俺の足を止めてしまったともいえる。
でも、いつまでもそうもしていられないのでその場を後にしようとしたけれど、それでも足は動こうとはしなかった。
そこで、その天使をじっと見続くけるわけではなく接する方法として、自分も撮影させてもらうという手がひらめいた。
だが、周りのカメコはみんな立派な一眼レフのカメラを抱え、撮影もその短いレンズの筒先をレイヤーさんに向けている。俺はそもそもカメコではなく、風体からしても薄い本目当てのオタクにしか見えないだろう。撮影するにしたって一眼レフなど持っているはずもなく、スマホのカメラしかない。
周りを見回してみても、たしかにスマホで撮影をしている人はかなり少ない。でも、いないわけではない。
そこでちょうど前に撮影していた人が終わって、それから誰も並んでいないのを確認してから俺は意を決して天使に近づいた。
「あのう、よかったら」
そこまで言ったとき、俺の目は天使が持つアイテムにくぎ付けとなった。そして俺の顔を見た天使が「あーーっ!」と声をあげたのも同時だった。
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