④
碧い瞳が、僕を見ていた。
「――リラ」
彼女は何も喋らない。ただ微笑んで、じっと僕を見つめている。
「……ごめん、やっぱりダメだったよ」
夢、だろうか。あるいは、僕はもう死んでいて……お迎えに来てくれたのだろうか。
「僕なりに、色々頑張ったんだけどさ。きちんと彼女を止められたのか、どうなんだか……。実は僕にも、最後がどうなったのか、良くわからないんだ」
意識がなくなっちゃったからね、などと。
口はひとりでに動いて、勝手に僕の本音を垂れ流していく。
「正直……さ。今だって怖いし、僕はずっと逃げ出したかった。それでも、身体は勝手に動いていた。なんでだろうね?」
リラは、何も言わない。だからこれは……きっと、夢なのだろう。ただ僕の願望を映した……夢に過ぎないのだろう。
「僕はいつも、君を思い出していた。君の瞳に見られていると思うと……とても、じっとしていられなかった」
彼女はただ、黙って微笑んでいる。その顔を見て、僕はふと思った。
本当の彼女は、そんな僕を……どんな表情で見るのだろう。
「今思えば……不思議だな。そんな事、全然考えなかった。君は……そんな風に微笑んでくれたのかな?」
……ああ、そうか。
怖かったとか、誰かが死ぬのを見たくなかったとか。それも決して、嘘ではないけど。
「僕はただ、君に笑っていて欲しかった。それだけ……なのかもね」
すっ、と。それまでじっと動かなかったリラが、唐突に腕を上げ、僕の背後を指差す。
と、同時に。周囲が白く、明るく染まる。どこからともなく、光が満ち溢れてくる。
「……えっ、何?」
驚いてキョロキョロと周囲を見渡す。その間にも光量はどんどんと上がり、目の前の彼女もほとんど見えなく――。
「ま、待って! リラ、君と会えて僕は……本当に良かった!」
咄嗟に、言葉が口をついて出る。
咄嗟の言葉だ、咄嗟の言葉だけど……それは、紛れもない本音だ。
悪夢のような数日間だった。だけど、それでも僕は、彼女との出会いを後悔していない。僕はリラに出会えて、本当に良かった、と……そう思っている。
だから。
「――――リラ、ありがとう!」
満ち溢れる光の中、微かに見えたリラの表情は。
……穏やかに、微笑んでいるように見えた。
† † †
眩しさで、目が覚めた。
閉じた瞼越しに映る光が、現実の明るさを伝えて来ている。
「…………んっ」
ゆっくりと、明るさに慣らしながら目を開ける。
視界に映る場所は……意識を失う前と変わっていない。壁にぶつかって気絶して、そのままだ。どれくらい、時間が経ったのだろう。
「…………生きて……っ痛ぅう!」
少し身じろぎしようとしただけで、全身に痛みが走る。しかし……少なくとも、僕はまだ死んではいないらしい。
痛みに耐えながら、どうにかこうにか足に力を込める。壁を支えに、よろよろと立ち上がる。
「彼女、は……」
『魔女』の、花鈴さんの姿が見えない。部屋の中はズタズタに荒らされたまま。彼女の胸から流れ出た血の痕は、点々とベランダに続き、そして……柵にまで、べったりと血痕が残っている。
「……はぁ……はぁ……」
動くたびに痛みを訴える身体をどうにか引きずりながら、ベランダに出る。柵に手をつき下を、裏庭を見下ろす。
「…………あぁ」
そこには、彼女が落ちている。
胸には包丁が突き立てられていて、その下には血溜まりが出来ていて。
虚空を見つめる彼女は見るからに、明らかに……もう、死んでいる。
「……はぁ……はぁ……」
一歩一歩、壁に手をつきながら階段を下りる。一段毎に感じる痛みに、顔を顰める。それでも、歩けないほどの痛みではない。ズキズキと痛む背中も、もう流血は止まっているようだ。
「……檜来さん」
玄関の扉は……開いていた。
リビングは割れたガラスが散乱している。玄関から出て、裏手に回る。
「花鈴……さん」
外は、嘘のように明るい。ギラギラと降り注ぐ太陽の光が空気を熱し、白々と全てを照らしている。
フラフラと、頼りない足取りで身体を動かす。徐々に、でもはっきりと。横たわる彼女の姿が見えてくる。
「花鈴さん……」
花鈴さんの胸には、いくつもの刺し傷があった。今も包丁が生えている傷以外にも、いくつもの刺し傷が。何度も、何度も何度も何度も何度も、念入りに包丁を刺した証拠だった。
……檜来は、逃れることが出来たのだろうか。彼女の呪縛から解き放たれて……彼は、自由になれたのだろうか。
周囲を見渡しても、彼女の死体以外には何も見当たらなかった。彼の姿も、彼の痕跡も、何もない。彼がどこに行ったのか……もう、僕には見当もつかない。
「花鈴さん、僕は……」
見開いたままの、彼女の瞳を見る。ブラウンの、印象的な大きな瞳は……今はもう、何も見つめていない。
愕然とした表情の彼女は、最期に何を思ったのだろう。
「僕は、本当に嬉しかったんですよ」
彼女にとっては、何気ない言葉だったかもしれない。ほんの軽口だったのかもしれない。演技だったのかもしれない。深い意味は、なかったのかもしれない。
……それでも。
「あなたが一緒に働こうって言ってくれて。可愛いって言ってくれて。大事なのは、僕がどうしたいかだと言ってくれて」
僕にとってそれは、何よりも嬉しい言葉だった。
僕を認めてくれる……僕を救ってくれる言葉だった。
「本当に……嬉しかったんですよ……」
あなたの店で働きたかった。もっとあなたのコーヒーを飲みたかった。あなたと……笑い合いたかった。
彼女の瞼を撫で、静かに閉じる。
僕ももう、とても……目を開けていられなかった。
「…………終わったよ。全部、終わったよ…………」
目を閉じて、天を仰ぐ。そうしないと……嗚咽が、全てが溢れてしまいそうだった。
「花鈴さん……お母さん……リラ……」
彼女たちの顔が、脳裏を駆け巡る。もう記憶の中にしかない、彼女たちの色々な表情。もう二度と見ることの出来ない……彼女たち。
僕が彼女たちを忘れる事は――――絶対に、無い。
「…………さようなら、みんな」
自分にしか聞こえない、小さな声で。
僕はそっと、別れの言葉を呟いた。
――こうして。
僕の非日常は、終わりを迎えた。
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