③
物心ついた頃には、既に父親はいなかった。
いや、生物学上の父はきっとどこかにいるのだろう。だけど僕はそんな人に会ったことはないし、母から父の話を聞いたこともなかった。ただ、それが触れてはならない話題であることは、子供心になんとなく理解していた。
「ねえ……どうしてなの?」
母の優しい声を、聞いた覚えがない。詰るような、ヒステリックな金切り声。それがいつも聞く、あの人の声だった。きっと、あの人の声帯はそういう声しか出せない構造になっていたのだろう。
「……ごめん、なさい」
僕はいつも、何かを謝っていた。何故か、そんな記憶しかない。大抵は些細な事だったし、いくつかはどうしようもない事だった。母は何かにつけて僕に怒鳴りつけ、ヒステリックに泣き喚いた。
「どうして私の言う事を聞けないの!? ねえっ、どうしてっ!?」
「……ごめんなさいごめんなさい」
謝るよ。僕が、いくらでも謝るから。だから泣かないで……お母さん。
どこに行くでもないのに、母はいつも綺麗に化粧をしていた。毎朝丁寧に、飽きもせずに、いい匂いのする香水をつけていた。そんな母が好きで、母が泣くのが……いつも、たまらなく悲しかった。母が泣くと、せっかくの綺麗な化粧が崩れ落ちた。それを見ると、僕はますます悲しくなった。
「どうして私を苦しめるのっ!? どうしてあなたは■じゃないのっ!?」
僕が母の化粧品に興味を持った時なんて、特に酷いものだった。何を言われたのかは、もう覚えていない。とにかく酷い怒りようだったことと、母が滅茶苦茶に家の中の物を投げたから、片付けが大変だったことだけは覚えている。何が気に入らないと言えば、きっと……母は僕の存在自体が気に入らなかったのだろう。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
それでも僕は、そんな母を心の底から愛していた。化粧にも香水にも、まるで興味のないふりをした。どんな些細なことにも気を配り、母の機嫌を損ねないようにした。精一杯、僕は良い子を演じた。
「あんたなんかっ! あんたっなんかっ!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい許してくださいお願いしますお母さんごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
あの時は、一体何がきっかけだったのだろう。あまり良く思い出せない。僕の目元が誰かに似ている事を責められたのかもしれないし、身体が成長して服のサイズが合わなくなった事を詰られたのかもしれない。いずれにせよ、いつもとそう変わらない内容だったことは覚えている。
だけど。内容が同じような物でも。この時は……何かが違った。
「あんたなんか――――生まれてこなきゃ良かったのに」
およそ肉親に向けるものとは思えない、冷え切った声。そのあまりの温度の低さに、ゾッと背筋が凍る。
――直感。最悪な何かが起きる、そんな予感。
本能が警鐘をかき鳴らす。その声は、確実に何か踏み越えた声だった。幾度ものヒステリーですら決して越えることのなかった、何か――致命的な一線を。
「あんた……なんか」
ゆらり。
揺れる母の手には、鈍い光を映す刃物が握られている。よく研がれた包丁が、しっかりと握りしめられている。
「やめてっ……お母さんお願いっ……お母さんっやめてぇぇぇぇええええええええええええ!」
「あんたなんかぁぁぁああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
母の手が、その手に握られた包丁が、大きく振りかぶられる。
反射的に身が縮み、ギュッと両目が閉じられる。
ごめんなさい許して下さい、嫌だどうして怖い刺される、力一杯深々と包丁が僕を、そして――。
――――死。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
咄嗟に身体が動いた。
目を閉じたまま、闇雲に両手を前へ突き出す。どんっと、何かを突き飛ばす感覚。
ごっ。
鈍い、何かがぶつかる音。続けて響く、重いものが落ちる音。
そして訪れる…………静寂。
「………………え?」
恐る恐る、目を開ける。
視界に映し出されるのは、床に横たわる母の姿。
「お母…………さん?」
呼びかけに応える声はない。それどころか、横たわったままの母は微動だにしない。後頭部からは、血が流れ出ている。
「ねえ……嘘でしょ……お母さん?」
ふらふらと定まらない足取りで近づく。震えながら、母の身体に手を伸ばす。
「ねえお願い、お母さん……しっかりして、お母さ――」
身体を揺すろうとして……母の身体は、全く無抵抗にゴロリと転がる。
「………………あ」
虚ろな瞳と視線が合う。
一目でわかった。母はもう、嘘のように呆気なく、どうしようもなく。
………………死んでいた。
どうしたらいいのか、何も考えが浮かばなかった。
僕はただ呆然と、母の死体を眺めていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
譫言のように繰り返し、ただ膝を抱えて見ているだけだった。
赦しを乞うように、救いを求めるように、ただ呟いているだけだった。
そうすれば、奇跡が起きるとでも思っていたのだろうか。
突然母が起き上がり、優しい笑顔を向けてくれるとでも思っていたのだろうか。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」
……そんな奇跡は、起こらなかった。
やがて、母の死体は腐り始めた。鼻を突き刺す腐敗臭は、すぐに感じなくなった。ブヨブヨとした青白い肌を、蟲が食い破った。腐敗したガスが、身体を奇妙に膨らませた。肉が腐り落ち、ドロドロとした液体が滲み出した。ブンブンと飛び回る蠅の羽音がうるさかった。
愛する母が、目の前で腐り落ちていく。いつも綺麗に化粧していた顔が、食事に気を配り引き締めていた肢体が。命を失った母の死体は、無慈悲に、不可逆に物質に還っていく。
僕は……それを。
ただ。
ただ。
ただ。
ただ。
ただ。
ただ、呆然と。
ただ、膝を抱えて眺めていた。
「……」
母の死体が腐乱しきり、ほとんど骨だけになった頃。
僕はようやく、どうにかしなければならない事に気がついた。
「……どうしよう、お母さん」
掃除をした。母の骨を綺麗に洗い、椅子に並べた。
「これで…………元通りだね、お母さん」
そんなわけは……なかった。
「行ってきます、お母さん」
「今日は楽しいことがあったよ、お母さん」
「今日は遅くなるかも。後で電話するね、お母さん」
僕は、いつも通りの生活に戻った。
母は物静かになったけど、僕の話をよく聞いてくれるようになった。
……幸か不幸か、母の死は誰にもバレることが無かった。僕自身も、頭に霞がかかったように、母の死を意識しないようになっていた。ただ、今の母を誰かに見られるのは……まずい。その認識だけは、無意識に、しかし強烈に僕の頭を支配していた。
本当の意味で『母の死』をしっかりと認識出来るようになったのは、ほんのここ数日の話だ。
じわじわと、しかし確かに。僕は、僕が母を殺したことを……思い出して来ていた。
そして――今。
『魔女』を殺すために。
『魔女』の不意を突くために、彼女の注意を強く引きつけるために。
僕は……彼女を誘い込んだ。母が生きていると思い込んでいる彼女を、母の骨があるこの部屋へと誘導した。
彼女は、僕の思惑通りに動いた。彼女はこの部屋に入り、あの骨を見て、致命的な隙を晒した。僕の接近を許すほどの、僕がぶつかるように接触できる程の、致命的な隙を。
だから。
彼女は、『魔女』は……僕に、胸を差し貫かれた。
† † †
「おおおおおおおォォォォオオオオオオオオオオオッッッ!!」
雄叫びを上げ、全体重をかけて包丁を捻じ込む。
包丁は既に、『魔女』の身体を刺し貫いている。心臓付近のはずだ。明らかな致命傷。もうとっくに死んでいても、何らおかしくない。
そのはずだ。
そのはず。
……なのに。
「あああああああァァァァァァアアアアアアアアッッッ!!」
生きている。
まだ魔女は、花鈴さんは、絶叫を上げながらも……生きている。
「
――詠唱。
止められない。考える暇はない。
「ウ゛ウゥアアアあああああああ゛あ゛あ゛ッッ!」
刹那の判断。
全力の絶叫。全身全霊を傾けて、身体ごと包丁を押し込む。
もっと深く、もっと強く、もっと……彼女にっ!
「
風が、不可視の刃が吹き荒れる。窓が割れ、壁が裂ける。椅子が、骨すら切り裂かれる。
背中をズタズタに切り裂かれる激痛。
痛い。苦しい。怖い。でも……でもっ!
「ああああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッッ!」
絶叫を上げながら――更に踏み込む。
やられたのは背中だけだ。今回は彼女に密着している。彼女自身にあたるようには、魔法を放てない……!
力任せに『魔女』の身体を押し込む。勢いのままに割れた窓を踏み越え、ベランダに出る。このまま、下に突き落として――!
「……こんっっのぉぉぉおおおおおっ!」
彼女の掌がぐりんと背面に回され、僕の頭をむんずと掴む。
と、思う間も無く――不意に身体が、空中に放り出される。
「……えっ?」
次の瞬間、全身に走る強い衝撃。
壁に全身を叩きつけられた故の、身体が砕けるような衝撃。
「……アッ、ガァッ……っ!?」
激痛の中、遅れて理解する。
あの一瞬で。片手の力だけで。
壁に思い切り、力任せに……投げつけられたのだ、と。
「□□□・――」
詠唱が聞こえる。
彼女から離れた僕を確実に殺す。そのために、大きな魔法を使うつもりだろう。
「ま、だ……」
視界が霞む。身体に力が入らない。頭が割れるように痛い。
何をしている。今すぐ立ち上がれ。あの口をふさげ。詠唱を止めろ。また心臓を突き刺せ。
――彼女を殺せ。
「僕、は……」
意思に反して、身体は1ミリも動かない。頭が朦朧とする。意識はもう、今にも失われそうだ。
視界はどんどん霞んでいく。目の前にいるはずの彼女すら、もう影絵のようにしか見えない。
「――□□□・□□□・――」
詠唱が聞こえる。影が何かを言っている。それももう、どこか遠い場所の出来事のように思える。
あれほどの深手を負わせたのに、彼女はまるで死ぬ気配が見えない。このまま彼女が死ぬかは、疑わしいだろう。もっと致命的に、もっと徹底的に。彼女を……彼女を殺さなければならない。頭ではわかっている。だけど、だけど僕は、もう……。
…………ここまで、なのか? ここまでやっても、僕は彼女を止められないのか? 殺しを止めることも、リラの仇を討つことも、結局何も成し遂げられず。僕はただ、ここで殺され――。
その時。
薄れゆく意識の中で、低い声を聞いた気がした。
「ドブ川のような臭いがする」
どこからともなく。
黒い影が、湧くように現れる。そんなように見えた。
影が、何かが。彼女に近づいていく。彼女の影に、重なりあっていく。
不鮮明な視界の中で、しかし……確実に、何かが起こっていた。誰かが、彼女を――。
「――異世界人は全員殺す」
あの声が、聞こえた気がした。
それは現実か。願望が生み出した幻か。全てが果てしなく、どこまでも曖昧なまま。
霞む視界の中に、僕は溶けていく。
闇の中へ、意識が、し、ず、ん、で――――。
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