②
――プシュゥゥゥゥうううウウウウウッ!
スプレーの先端から勢い良く噴射された液体が、容赦なく彼女の目と鼻口を襲う。
「ガァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!」
声にならない悲鳴。常に余裕を崩さなかった彼女が目を抑え、絶叫をあげる。
それが、いつか檜来に渡された熊よけスプレーの威力だった。
「これ……もっ!」
容器の蓋を丸ごと取った、アルコール液。それを、悶える彼女の手元に放り投げる。
――ピシャリッ
狙った通りに飛んだ容器は派手に中身をぶちまけ、アルコールが彼女の手や顔にかかる。
「ゲホッゴホッガァァアアアゴホゴホゲホッァァアアアアアアア!!!!」
「……っ!」
彼女はまだ、激しく悶絶している。スプレーの刺激物質を無防備に吸い込んだために激しく咳き込み。涙を流しながら抑えている目は、見開くことも出来ない。
想定以上の成果。これなら、このまま――!
「――
突如、彼女の周囲に嵐が吹き荒れる。
全方位に、爆発的に叩きつけられる突風。
「…………っ!」
あまりにも強い突風に、自分の力では抗うこともできない。
自然と身体は床から浮き上がり、そのまま勢いよく壁に叩きつけられる。
「…………ぐっ、うぅっ……!」
叩きつけられた衝撃で、肺から空気が漏れる。背中に走る激痛。だけど、それよりも精神的な衝撃の方が大きい。
「ァアアアッッッッゴホッゴホゲホゲホゲホッァァアアアアアアアアアアア!!!!」
「あの状態で詠唱を……っ!?」
彼女はまだ激しく咳き込み、悶絶している。普通では、とても言葉を発せられる状態ではない。そうなるように、催涙スプレーを使った。……なのに。あの状態で魔法の詠唱を、無理矢理にでも完遂して来るなんて……!
しかし、ショックを受けている時間はなかった。
「
「……っ!」
詠唱。次の。
――ヤバい。
考える時間はなかった。
咄嗟に床を蹴り、リビングから転がるように飛び出る。
……と、ほとんど同時に。
「
恐ろしい声が響き渡る。続けて響く、風と破壊の轟音。
すんでのところで難を逃れた僕は、恐る恐る背後を振り返り――言葉を失くす。
「……な」
なんだ、これは。
床が、壁が、家具が。
部屋の中で吹き荒れる風が収まると、リビングのあらゆるところに、無数の切り傷が生じていた。ズタズタに一帯を引き裂いた、不可視の風の刃。一瞬でも判断が遅れて、この部屋の中にいたら僕も――。
「ゲホゲホゲホッァァアアアッどこだァァアアア!!!」
「……!」
『魔女』は悶絶しながら、何事か叫んでいる。その目は依然、開かれていない。彼女は僕の居場所を、把握できていない。だからこその、全方位無差別の攻撃。出鱈目に、周囲の全てを殺すための魔法。
「ッ□□□――」
あらぬ方を向き、さらなる詠唱を始める彼女。
彼女の周囲に近づくことは出来ない。それどころか、部屋の中に戻る事も出来ない。あまりにも……危険過ぎる。ここで戻っても彼女の魔法に巻き込まれ、即死する未来しかない。
……だけど、これはチャンスだ。彼女がこちらを視認できない隙に、こちらの居場所を把握できない内に――。
「□□□□□□□□□ッ!」
響き渡る詠唱の声と、彼女の周囲で起こる破壊の音。それらを背後に、僕はひっそりと二階への階段を上っていく。
「どこだ……どこだァァアアアアアアアアアアアッ!!!」
† † †
「……はぁ……はぁ……。……あー、やられた」
催涙スプレーの効果が切れ、咳や目の痛みが引いた後。
ゆっくりと目を開けた、第一声。彼女は、呆れるようにそう呟いた。
「いないじゃん、あの子。道理で手応えがないはずだよねー……」
あーあ。と言いつつ、彼女の声は明るさを取り戻している。催涙スプレーに悶え、怒り狂っていた時の声の響きは、もうない。
彼女の周囲は傷がつき、焼け焦げ、滅茶苦茶に荒れ果てている。出鱈目に魔法を放ち、周囲一帯を蹂躙した結果だった。
「上手いことやられたなー、ほんと。そうだよねー、こっちには色んな道具あるんだしね。流石に……油断し過ぎたかなー」
久しく、外敵には接近すら許して来なかった『魔女』。それが故の、危機感の欠如。魔法という圧倒的アドバンテージがあるが故の、この世界に対する傲慢。それらが彼女に、通常では考えられない隙を作っていた。
……そう、つい先刻までは。
「でも残念。千載一遇のチャンスを活かしきれなかったね。私を殺すつもりなら、さっきのでどうにか殺しきらなきゃダメだった。もー、こっからは本気。本当に本気でいくからね〜!」
まるで真剣味が感じられない、軽薄な口調。薄っすらと、微笑みすら浮かべた口元。しかし、その目は決して笑っていない。その眼球は獲物を求めるように、ギロギロと、不自然に動き回る。
「もうこの部屋にはいないみたいだけど……どうせ、完全に逃げ出してはいないんでしょ? だってキミ、私を止めたいんだもんね。しかも……いるもんね、この家には」
ニッコリと。妖艶な笑みを浮かべて、彼女は上を見る。
「キミの……お母さんがさ」
――りん、と。
彼女の耳元で、小さな鈴が揺れた。
† † †
「もーう、いーいかいっ。もーう、いーいかいっ」
楽しそうな、女性の声が聞こえる。明るく、よく通るあの声が家の中に響く。
「あーおーいくんっ。あーそびーましょっ。もーう、いーいかいっ」
ギイギイと、階段の軋む音が聞こえる。一段一段、決して急ぐことなく。彼女が、ゆっくりと階段を上っている。その音が……嫌に耳に障る。
「ねえ……どこかで聞いてるんでしょ? いつまでそうやって、かくれんぼしてられるかなぁー?」
彼女の声は、段々と調子を変えていく。ねっとりと、粘着くような響きを帯びていく。舌なめずりでもしているような、獲物をいたぶるような口調になっていく。恐らくは、これが彼女本来の声音。酷く嗜虐的で――冒涜的な口振り。
「いつまでも隠れてていいのかなー? 出て来て、私を止めなくて良いのかなー? ほーら、二階に上がっちゃうよー?」
ギイギイと耳障りな音を響かせながら、階段が軋む。その音が、どんどん近づいてくる。一歩ずつ、でも確実に、彼女は近づいてきている。
物陰に隠れながらでも、わかる。彼女はもう、間も無く……二階に辿り着く。
「このままだとキミのお母さん、どうなっちゃうかなぁ? 私はねぇー、こう見えても、結構イラッと来てるんだよ? だからキミも、キミのお母さんも、簡単に殺したりなんかしない。指の先っぽから少ーしずつ、丁寧に刻んでいってあげる。ああ、でもダイジョーブ! 中々死なないように、ちゃんと魔法もかけてあげるからさ。なるべく長ーく、苦しませてあげるし、じーっくり、いたぶってあげるよ」
とうとう、彼女は階段を上り切る。二階に並ぶ、いくつかの部屋の扉。その内のひとつを開けながら、彼女は何事か話し続ける。
「どこかなーっ? ここかなーっ? おかーあさんっ、挨拶に伺いましたよー。あなたのお子さんの目の前で、刻んで差し上げますからねー」
バタン。バタン。と。
ひとつひとつ、無造作に扉を開けながら、彼女はそんな言葉を吐き続ける。
「あーおーいっくんっ。でーておいでっ。威勢が良いのは口だけかなー? ビビっちゃったかなー? 物陰でガタガタ震えて、糞尿垂れ流してるのかなー? 泣きながら神様にお祈りの時間かなー?」
バタン。バタン。
……とうとう、残された扉はひとつだけになる。
最後に残された、一番奥の部屋の扉。一歩ずつ。そこに、彼女が近づいて来る。
僕はそれを……息を殺して見つめている。
「……キミが出てこないつもりなら、それはそれで構わないよ。物陰から見てるキミの目の前でさ、たーっぷりお母さんを虐めてあげる。キミはそこで、震えながら見ていればいいよ。何も出来ず、何も救えず、目の前で自慢のお母さんが――取り返しのつかない死に方をしていく様を」
……いや、そんなことにはならない。
絶対に、彼女の言葉が実現することはない。
なぜなら――――。
「おっじゃまっしまーすっ!」
奇妙な掛け声と共に、彼女が勢いよく扉を開ける。
そして、部屋の中を見渡し――。
「…………え?」
とある地点で、視線が止まる。
部屋の中央。ビロードの椅子の上。
「なに……これ」
そこには、骨が並べられている。
頭から足の先までひと揃いの……人間の白骨が。
――この瞬間を待っていた。
どん。
どこか間の抜けた、鈍い衝撃音。ぐらり、と前方に傾く『魔女』の上体。
ジワリ、と赤黒いシミが彼女の胸元を広がり始める。
両手から伝わる、確かな手応え。肉を切り、貫く感触。
彼女の胸を刺し貫いた包丁を握り締めながら、僕は言う。
「あなたに母は、殺せません」
だって。
……もう、とっくの昔に。
「――――僕が殺しましたから」
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