5(後編)




 切れかけの電球の光が、チラチラと瞬く。そもそも光源が足りていないのだろう。地下へと続く階段は、ただでさえ足元も覚束ないほどに薄暗い。そこへ来て、その僅かな光源すらチラつくものだから、視界は酷く悪かった。


 だが。青年はそんなことは気にもならない様子で、平然と階段を下りていく。普通ならば薄暗さに警戒をするところでも、この青年には関係がない。何があっても、自分が傷つくことはない。それが故の、余裕。恐怖、警戒、未知への備え。そんな弱者の生きる知恵は――全て、青年には必要のない概念ものだ。


「……なるほど。臭いの元は、か」


 スンと鼻を鳴らし、青年はひとり納得する。

 階段を一段下りる毎に、空気は濃密な血の臭いを帯びていく。今や誰にでもわかる程に濃厚なその臭いは、はっきりと地下室の方から漂ってきている。階段の真新しい血痕によるものだけでは、決してない。その臭いは、もっと大量の血が何度も、何度も何度も何度も何度も……この地下室に流れ続けたことを意味していた。たかが数人分の血では足り得ないはずだ。何人も、何十人もの血が、ここで流れた。――そんな、濃厚な臭いだった。


「ククッ。どんなとっておきの罠で出迎えてくれるんだぁ?」


 だが。その青年は、は深刻に捉えなかった。一般人には嗅ぎ慣れない臭いでも、青年にとっては戦場でよく嗅ぐ臭いに過ぎない。きっと自分を殺すための、血生臭い罠が用意されているのだろう。その程度にしか考えなかった。

 果たしてその罠とは、どんなものだろうか。身体を刺し貫こうと迫る、針の山か。首を切り離そうと迫る、大きな刃か。しかしそのいずれも、青年の身体に傷を付けることは敵わない。


「……あ゛ん?」


 何事もなく階段を下りきった青年は、怪訝な顔で首を傾げる。階段を下りきる辺りで何らかの罠が作動すると踏んでいたが、どうやらその予想は外れたようだ。


「この通路の先……か?」


 階段を下りた先には、細長い通路が続いた。無機質なコンクリートだけで構成された、味も素っ気もない、ただの地下通路。

 チラチラと瞬く電球の下。特に構えるでもなく、さらに薄暗くなる通路の先へと歩を進める。カンカンと、青年の足音だけが静かに反響する。屋外よりは遥かに涼やかな地下の空気。通路の先からはさらに濃厚な臭いを伴った生温い風が、微かに吹き付けている。角をひとつ曲がるとすぐに、少しひらけた空間――地下室が口を開けていた。


「……いない?」


 通路の先にある地下室は、さして広い空間では無かった。打ちっぱなしのコンクリートに四方を囲まれた、ガランと殺風景な空間。薄暗いその部屋には、今入った入り口以外には、窓も扉も存在しない。しかし、部屋の中にいるはずの人影は――やはり、どこにも見えない。


「隠し扉でもあるのか……? クソッ、雑魚がコソコソ隠れてるんじゃねぇよっ!」


 怒りに吼える青年。あまりの苛立ちのためか、クラリと目眩すら感じる。

 その勢いのまま、カツカツと部屋に踏み込みながら、周囲を見渡す。濃密な血の臭いが支配する、異様な地下室。しかし、そう広い部屋でもない。部屋の中にあるものは限られている。


 まず目につくのは、中央にポツンと置かれた、一脚の椅子だ。


 壁際に並ぶ棚の中を見やりながら、部屋の中央へ向かう。その棚に並ぶのは、一見まとまりの無い道具の数々だった。ハサミ、金槌、釘、鉈、ナイフ、ドリル、ドライバー、ノコギリ、チェーンソー、糸鋸、シャベル、錐、針、メス、ピンセット、ハンダゴテ、スタンガン、注射、手錠、枷、鎖、ワイヤー、革、縄、ミキサー、ペンチ、バール、フォーク……等々。数多くの雑多な道具類が、しかし、不思議に整然と並べられている。

 中には、青年には使い方がわからない道具も多くあった。だが、彼はさして気に留めなかった。おおよそ罠を作るための工作道具だろう、そんな程度の認識で通り過ぎる。棚の後ろに別の部屋への扉が隠してある可能性はある。椅子の周辺を調べ終わったら、そちらを調べよう――青年は少し冷静になった頭で、そんな風に思考を組み立てる。

 ふと、棚の横の地面に小さな円筒形の物がいくつか並べられている事に気がつく。白いその筒――七輪の中では、パチパチと静かな音を経てて炭が燃えている。地下ここは外に比べれば涼しいとはいえ、暖を取る必要がある程寒いとは思えない。


「肉でも焼いてたのか……?」


 少しだけ疑念を抱きながら、しかし青年は足を止める事なく進む。

 ほどなく、青年は部屋の中央――椅子の前に辿り着く。明らかに、ただ座るためだけのものではない。手首、足、胴、首にあたる部分それぞれに、座ったものを拘束するためのかせが設けられている。一度この椅子に座らされ、この枷を全て嵌められたら――その者は、自身の意思に関係なく、身動き一つ出来なくなるに違いない。

 

 そして。

 特に濃厚な血の臭いを放つその椅子の上には、これ見よがしに何冊ものノートが置かれている。


「本……?」


 なぜか嫌な予感がしつつも、青年はそのノートに手を伸ばす。青年は知る由もないが、それは装丁された本などではなく、この世界ではごく一般的なキャンパスノートだ。白紙のノートに、が、を、記入したものだ。

 柄にもなく感じる不安。少し荒い息遣いで、青年はその気味の悪いノートを広げる。



――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 エルフの捕獲に成功。年齢推測困難。ドブ川のような臭いがする。

 意識覚醒前に、声帯の切除処置を完了。

 暫定止血処置済み。傷口化膿。短期の実験継続には支障無しと判断。

 力は強くないため、拘束のみで対処可能。

 意識を取り戻し次第、反応実験に移行する。


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 反応実験を開始。

 爪の間に█を打ち込む。強い痛覚反応を確認。

 四肢の生爪を███。強い痛覚反応を確認。

 指の骨を一本ずつ██。強い痛覚反応を確認。

 大腿骨を██。強い痛覚反応を確認。

 痛覚は人間と同様に作用と判断。

 意識レベル正常。実験継続。


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 片█を摘出。強い痛覚反応を確認。視覚反応の変化を確認。

 両█を削ぎ落とす。██を突き破る。強い痛覚反応を確認。聴覚反応の鈍化を確認。

 █の一部を切除。強い痛覚反応を確認。味覚反応は確認困難。

 █を焼く。強い痛覚反応を確認。焼けた部分は反応鈍化。

 歯を███で██。強い痛覚反応を確認。

 意識レベル正常。実験継続。


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 █を切除。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 ██を切除。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 ██を切除。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 ██を切除。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 出血大。時間経過により意識レベル低下。

 意識レベル低下。

 意識レベル低下。

 意識レベル低下。

 意識消失。殆ど同時に生命活動停止。失血が直接的な原因と思われる。死亡直前まで意識を維持する個体は稀。長命種は痛みに強い傾向? 種族差、或いは個体差か。要検証。続いて解剖を――

――――――――――――――――――――――――――――――



 各ページには、ご丁寧に対応する写真が貼られている。無機質に、ただ記録のために撮られた、その写真。な絵面に反して、そこにはただ、冷たい合理性しか存在していない。


「なん、だよ……これっ……!?」


 青年は、この世界の言語を理解できない。だから、ノートに書いてある文言の意味するところは知らない。しかし、添付されてある画像を見ていけば、何が起きたかは察せられた。

 怒りすら通り越して生じる、強い拒絶感。ガンガンと激しい頭痛を感じながらも、指は紙を操り、次々とページをめくっていく。


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 獣人を捕獲。壮年。ドブ川のような臭いがする。

 意識覚醒前に、四肢の腱を切除。念のため拘束も実施。

 意識を取り戻したため、反応実験に移行。

 獣状の耳に█を█す。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 尻尾を██で████。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 爪を█████。強い痛覚反応を確認。途中で意識消失。

 強制再覚醒実行。実験継続。引き続き爪を――


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 牙状の歯を██。強い痛覚反応を確認。実験継続。

 他の歯を███で██。強い痛覚反応を確認。

 数回意識消失。痛覚耐性は低い。都度、強制再覚醒実行。実験継続。

 █████による刺激実験。強い反応。皮膚に火傷形成。

 █████による刺激実験。一時的な痙攣、麻痺。但し影響軽微。軽い火傷形成。

 続いて█████を――


――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 第六感の作用は脳に由来と推定。前頭葉の一部損壊を試みる。

 頭部を強く拘束。███を回し██開始。

 強い痛覚反応。意識消失。強制再覚醒。強い痛覚反応。意識消失。強制再覚醒。

 ███が頭蓋骨を██する辺りで生命活動停止。検証に至らず。

 ショック性の心停止と推測。獣人の痛覚耐性を前提に再計画必要。

 麻酔は入手困難か。アルコールか、或いは押収したあれを――


――――――――――――――――――――――――――――――



「ありえない……許せるわけがないっ! このっ……薄汚い魔女どもが……っ!」


 本能的に湧き上がる、激しい嫌悪感。ムカムカと吐き気すら覚えるほどの、強い感情。

 狂気に呑まれた青年ですら、正気に引き戻されるているかのようだった。これ以上ないと思っていた魔女への敵愾心。しかし今となっては、これまでの感情が余りにも生温い物だったと悟る。奴を、奴等の存在を……絶対に許してはならない。


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観察記録 █月█日


 ドワーフを捕獲。幼体。ドブ川のような臭いがする。

 四肢の腱を切除、拘束実施。

 食事を与えず、何日間活動を――


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――――――――――――――――――――――――――――――

観察記録 █月█日


 人族を捕獲。老年。ドブ川のような臭いがする。

 拘束を実施。見た目はこちらの人類と変わりない。

 実験に移行。██を刻んでいき――


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観察記録 █月█日


 ██を捕獲。██。ドブ川のような臭いがする。

 拘束を実施。実験に移行。

 ██を行い反応を――


――――――――――――――――――――――――――――――


 見るに堪えない、悍ましい記述の数々。

 存在そのものが冒涜的な、拷問と殺戮の記録。


「ふざけるな、こんな、こんなことが……っ!」


 怒りのあまり、青年は目の前が真っ暗になる。


 ……と、思う間に。

 ふっと体の力が抜け、床に崩れ落ちる。


「…………あ゛?」


 理解できない。そんな調子の、短い声。


「……がぁあっ!?」


 突然。

 青年はもがき苦しむように喉を掻きむしり、床で身悶える。


「な、にが…………」


 その声を、最後に。

 青年の意識は途切れ、一人でに目が閉じられる。

 

 そして。

 ……そのまま。



 ――青年が目を覚ますことは、二度と無かった。

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