5(前編)

 確かな足取りで、一人の男が歩いていた。


「それで……隠れてるつもりか? なぁおい、魔女の眷属よぉ……っ!」


 誰にともなく。ブツブツと独り言を呟きながら、一人の青年が歩いていた。

 その身体には傷ひとつなく、足取りに異常は見られない。爆発に巻き込まれたばかりの人間には、間違っても見えなかった。


「もう追いかけっこは終わりか? 降参するから許してください……ってか?」


 白髪を振り乱し、血走った目をギョロつかせる。頬を垂れる涎を拭こうともせず、歪んだ口元をひくつかせる。その顔は笑っているようにも、泣いているようにも見える、酷く歪んだ表情を形作っている。

 かつての『勇者』はすっかり変わり果て、正気だった頃の面影はもうどこにも残っていない。いや、彼の『加護』は今も変わりなく、正常にその効力を発揮している。しかし歪み切ってしまった彼の在り方は、到底『勇者』と呼べるものではなくなっていた。


「ククッ……許せるわけがねぇよなぁ……っ! お前たちはどれだけの民を苦しめてきた……っ! 何人の無辜の民を殺してきた……っ!?」


 唾を飛ばし、怒声を吐く男の手には、抜き放ったままの長剣がぶら下がっている。警察官たちの血を滴らせながら、その剣は鈍い光を放っている。


「殺してやる。ああ……殺してやる! 命乞いをしようとも、地に頭を擦り付けて赦しを乞おうとも! 殺してやる。微塵に刻んで殺してやる。為す術もなく殺してやる。慈悲もなく殺してやる……!」


 辛うじて彼に残っている意識は、魔女に対する敵愾心だけだった。それだけが、『勇者』だった頃の名残りだけが――彼の身体を突き動かす、唯一の衝動だった。


「……ああ。いま殺してやるぞ、魔女の眷属」


 青年の前方には、ポツンと一軒の家が建っていた。家の前には、ボロボロの車が乗り捨てられている。エンジンをかけられたままのそれには目もくれず、男は家の扉を無造作に斬り裂く。

 

「そこにいるのは――わかっている」


 踏み込む男の横。扉の脇には、『檜来』と書かれた表札がかかっていた。




 † † †




 家に踏み入って、直ぐ。青年は鼻腔を刺激する臭いに気が付いた。


「これは……」


 それは、決して強い臭いでは無かった。今も臭いの元があるわけでは無く、過去に何度も漂った臭いが、意図せずしてこびりついてしまっている。そんな程度の、僅かな残り香だった。


「……だが、間違いない」


 それは、男にとってよく嗅ぎ慣れた臭いだった。そうでなければ、その僅かな臭いに気がつくことは無かっただろう。そう、それは数多の戦場で嗅ぎ慣れた臭い――血と、肉の臭いだった。


「ククッ、ただの根城ではない……ってわけか?」


 青年はこの世界のことをよく知らない。だから、普通の民家の中でそんな臭いがすることのに気がつかなかった。深く考えることもなく、軽快な足取りで家の中を踏み荒らしていく。


「どうした? 早くかかって来い。どこからでもいいぞ?」


 気配を探りながら、しかしまるで無警戒に先を進む。気配では相手の位置は大雑把にしか掴めない。それでも、すぐ近く――この家の中に獲物が潜んでいることは、間違いない。今もどこか物影に潜んで、こちらを襲撃する機会を伺っているはずだ。

 、あえて無警戒に振る舞う。そもそも無敵の『加護』を持つ青年は、奇襲も、罠も、何も警戒する必要がない。何が来ようとも、彼には傷ひとつ付けることが出来ない。これまで、数え切れない程の戦場において証明されてきた事だ。


「……チッ。そっちから来ないなら……炙り出すだけだっ!」


 相手が姿を現さない事に苛立った青年は、すぐに行動を変える。


「ここか? ここか? それとも……ここかぁっ!?」


 家具を、壁を、家を。目についた物に、片っ端から剣で斬りつける。深く考えての行動ではない。どこかに隠れているなら、隠れる場所が無くなってしまえば出てくるだろう。その程度の、雑な考えだった。

 その行動が切欠になったのかは、誰にもわからない。

 だが、幸か不幸か。その時たしかに、事態は動き始めた。



 ――ガタッ。



 物音が響いた。何かが動いたような音が、ひとつの扉の向こう側から聞こえた。

 

「――そこかぁっ!」


 青年は素早く反応した。物音がした扉に一瞬で接近し、斬り刻む。扉だったものは細かい破片になり、パラパラと床に降り注ぐ。


「……あ゛ん?」


 しかし、扉の向こう側に人影は見えない。なぜ、と思う間もなく、青年はその答えに気がつく。


「……なるほど、下か」


 扉の向こう側には、地下室への階段が続いていた。おそらく相手は、この階段の下に降りていた。その途中で立てた音が、こちらに聞こえたのだろう。


「地下、ね。もう逃げ場は無いぞ。……もっとも」


 チラと階段を見やる。そこにはベッタリと付いた、真新しい血痕が続いている。追い詰めている獲物が、既に深手を負っている証拠だ。あの爆発を引き起こした男。あいつはもう、虫の息だ。――そう、青年は判断した。


「逃げる体力すら、もう残ってはいないだろうけど……な」


 後はもう、追い詰められ、弱りきった獲物に止めを差すだけだ。あまりにも容易い――しかし『加護』持ちの青年にとってはいつも通りの――ただ一方的な殺戮。


「――♪」


 青年は、ごく軽い足取りで階段を下りていく。

 鼻歌すら響かせ……薄暗い地下室へと、その足を進めていく。




 † † †



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