6.5
ふらふらと、一人の男が歩いていた。
「どこだ……どこにいる……」
その男は、奇妙な風貌をしていた。身体は革鎧に包まれ、腰には物々しい長剣が吊るされている。その身につけるもの全てが、この
だが、何よりも異様な印象を与えるのは……その男の、鬼気迫る様子だった。
「………どこにいる………魔女……!」
青年と少年の間くらいの年齢だろうか。顔のつくりだけを見れば、整っている。眉目秀麗と言ってもいい。だが、ギョロギョロと動く血走った目が、目の下にクッキリと貼りついた青黒い隈が、正気を失ったように発する唸り声が。その生来の優れた容貌を、完全に損なっていた。
――突然。
その男は、ハッと、弾かれたように顔を上げる。奇しくもそれは、檜来が獣人を撃ち殺したのと同時刻のことであった。とても銃声が聞こえるような距離ではない。だが、その男は確かに、
「ああっ、あああっ……そんなっ……ケーナ、君まで……!」
何かを感じ取ったのか。男の顔には、今やはっきりと絶望の表情が浮かんでいる。
「リラ……タムタム……ケーナ……みんな、みんなもう…………」
ふらふらと、頼りない足取りで歩きながら。
血を吐くように、男は言葉を吐く。全てに絶望したように、下を向く。
――だが、次に顔を上げた時。
彼の顔に浮かんでいたのは、悪鬼羅刹の如き憤怒の表情だった。
「…………殺してやる」
血の涙を流しながら。ギリリと唇を噛みちぎりながら。
「絶対に…………殺してやる」
痛いほどに、力の限り剣の柄を握りつぶす。皮膚が裂けるのも構わず、バリバリと頬を掻き毟る。
「殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる殺してやる」
その足取りにもう、乱れはない。その視線にもう、迷いはない。
血走った眼をひん剥き、開ききった瞳孔を前方に向ける。
「皆殺しにしてやる。
そこにいるのは、もはや一匹の鬼であった。人であることを捨て去り、復讐に取り憑かれた修羅だった。
あるいは、彼が元いた世界でなら。この
彼はそれでも、いつか人に戻れたのかもしれない。
――だが。
ここはもう、彼の世界ではなく。彼はそれを、正しく理解しておらず。
「ごめんねー、お兄さん。ちょっとお話いいかな?」
「その腰の物ね。ちょーっと、見せてもらってもいいかな?」
彼に話しかける人間がいた。それは、二人組の警察官だった。その二人は、立ち塞がるように男の前に立った。
客観的に見れば――その男は、ふらふらと歩く見知らぬ不審者でしかなかった。ましてや、腰には怪しい長物を差している。近隣の住民の通報を受けた警察が駆けつけるのも、自然な流れだった。
事実、その二人はただの善良な警察官に過ぎなかった。人生に何の汚点も無い、清廉潔白な人間というわけではない。だが、少なくともこの時は。彼らは自分の職務を忠実に遂行しているだけであり、彼らには……何の落ち度も、存在しなかった。
「……なんだ、お前らは」
不幸なことに、お互いの言葉は一切通じていなかった。今この時に、彼らのを意志を伝える魔法は、掛けられていなかった。
――
「お前らは…………俺の、邪魔をするのか」
その男は、誤解した。
正しい意思疎通が出来なかった、その結果として……ひどく、捻じ曲がった認識を持った。
「俺が魔女を殺すのを、邪魔するというのか……お前たちは……!」
いや、そもそも。
その男は既に、錯乱していた。怒りに飲まれ、正常な判断が出来なくなっていた。
「あー、言葉通じてないよこれ。落ち着いてくださいねー、まず落ち着いてくださいねー」
「んー、外国の方かな。英語ならわかりますか? アー、ユー、スピークイングリッシュ?」
警察官たちは、落ち着いて対処した。尋常でない様子の男を身振りで
だから。
常識から外れているのは。この世界から外れてしまっているのは……むしろ、男の方だった。
「……そうか。そうかそうか。お前らみんな、魔女の眷属なんだろ。だから俺の邪魔をするんだ。そうだよ。俺の邪魔をする奴なんて、魔女を殺す邪魔をする奴なんて、そうでも無ければ……この世界のどこにも、いるはずが無い。なあ……そうだろ?」
ブツブツと、薄ら笑いを浮かべて呟く男。その様子はもはや、何かヤバい薬をキメているようにしか見えなかった。
「ダメだなぁ、言葉通じそうに無いよ。しょうがない、連れて行こう」
「ですね。様子もおかしいですし」
「すみませんね。少し、署までご同行願えますか?」
「ちょーっと、お話聞くだけですからね。すぐ済みますから、ね」
少しの話し合いの後。そう言って、片方の警官が男の肩に右手を置いた。それは男を誘導しようとするだけの、ただそんな意味合いだけの、ごく軽い接触だった。
――だが。
「…………え?」
音もなく。一瞬にして。
彼の右手首は――――断ち切られていた。
「あ。ああっ……あああああああああああああああああああああっ!」
手首から先を失った右腕。それを左手で抑えようとしながら、警察官が絶叫する。
スッパリと断ち切られた断面からは噴水のように鮮血が噴き出し、肉と骨が顔を出している。
男の肩に取り残された手首が、ずり落ちてべチャリと地面に落ちる。
「魔女を殺す。魔女の眷属を殺す。殺す殺す殺すコロスコロスコロスコロスコロスコロス――」
ぶつぶつと、
抜き放たれた長剣が、警官の右手を断ち切った長剣が……血を
「――な、な、な、」
同僚の手を斬り飛ばされたもう一人の警官は、恐慌状態にあった。
一瞬にして崩壊した平穏。現実離れした目の前の惨状。唐突に突きつけられる、切迫した命の危機。
それら全てが、理性を消し飛ばす。
本能のままに、身体は自己防衛を……ただ脅威の排除を選択する。
「何を……しているんだっお前ぇぇぇぇええええええええええっっっっっっ!!!!!!」
絶叫しながら、ホルスターから拳銃を抜き放つ。威嚇射撃などという概念は、もはや頭の中に存在しない。
「死っねぇぇぇぇええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!」
――パンパンパンパンパンッ。
ろくに狙いも付けずに撃ち放たれた銃弾は、しかし的確に男の胴部と頭部に突き進み――。
「愚昧な」
――不可視の障壁に進行を
「…………は?」
男に辿り着く目前。全ての銃弾が壁にめり込んだように空中で止まり、やがてポロポロと落下する。
「……本気なのか? そんなもので、そんな
怒りとも嘲笑ともつかない表情で、その男は剣を振るった。目にも止まらぬ、素早い剣閃。
「誰だと思っている。この俺を……誰だと思っていやがる」
叫び声を上げる時間すら無かった。
拳銃を。腕を。胴を脚を首を頭を――全身を一瞬で斬り刻まれて、銃を放った警官は絶命した。
「応援要請! 応援要請! 刃物を振り回す容疑者と応戦中、場所は――」
残されたもう一人。最初に右手を斬られた警官の判断は、ある意味では正しかった。その相手は、決して一人で敵う相手ではなかった。
だが、その判断はあまりにも……遅すぎた。
「邪魔するな。俺は、魔女を殺す。殺す、殺ス、コロス、使命を、俺こそが、俺は、この俺は――!」
支離滅裂に何かを喚き散らしながら。男は一瞥すらせず、その警官を斬り捨てた。ほとんど意識すらしないまま、
「俺は――――勇者だ」
無敵の勇者、フィドル。
それが、その男の名前だった。
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