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 ピィーーーーーーーーーーーーーーーッ!


 甲高い警笛の音が、山の中に響き渡る。タイミング良く吹いた風が、山の木々を揺らしていく。何羽かの鳥が飛び立ち、呼び合うように鳴き声が響いた。


「これで、あの男はここに来るはずです」


 笛から口を離し、声をかける。

 これだけの音量だ。山小屋にもきっと、今の合図が聞こえただろう。仮に聞こえなかったとしても、檜来ひのきには例のがある。いずれ臭いを辿って、ここまでやって来るはずだ。


「ああ、お疲れさん。いよいよご対面ってわけだな。……なんだよ、ジロジロ見つめて?」

「いえ、そのー……何でもないです」


 何というか。その異世界人は、想像とはかなり違う容姿をしていた。

 キリッとした目鼻立ちの、まだ若い女性だ。雑にくくられた髪。西洋風の軽装で包まれた、手足の長い身体。一見、熊を食い殺せるような人間には見えない。

 だが、彼女が異世界人であることは疑いようがない。ピコピコと頭頂部で動く、獣のような耳。臀部から長く伸びる、狼のような尻尾。口を開けば、異様に鋭い犬歯が姿を見せる。よく見れば、手足の爪は長く、鋭く発達している。先ほど自分の喉に傷を付けたのも、この爪だろう。


 その爪で器用に頭を掻きながら、彼女は言う。


「なあ、本当にその男をぶっ殺しちまって良いのか? オレは良いけどよ……お前、そいつのお仲間なんじゃねえの?」

「いえ、仲間では。それに……もう、決めましたから」


 檜来と過ごしたこの数日を思い返す。結局、あの男が直接僕に危害を加えることは無かった。たとえ数日分でも、自分が知っている人間を、自分の意志で死に追いやる。考えるだけでも恐ろしい事だ。だけど……このままあの男の凶行を見続ける事の方が、僕にはよっぽど恐ろしかった。

 一瞬だけ、脳裏に花鈴さんの顔がよぎった。彼女と檜来の関係を、僕はよく知らない。だけど檜来が死んで、僕が殺して、彼女が悲しまないわけがないだろう。


「ごめんなさい。やっぱり約束……守れそうにないです」


 そっと、それだけを小さく呟く。


「……まあ、良いってんなら良いけどよ。こっちは元からそのつもりだったし。……つっても、お前のことを全面的に信用したわけじゃぁ、無いからな。そこは勘違いするなよ。お前からはどうにも……もすることだしな」

「…………えっ?」


 スンスンと鼻を鳴らす女性の言葉に、なぜだか猛烈に嫌な予感が込み上げてくる。

 臭い。匂い。におい。なんだ? なぜその言葉が……こんなに、嫌な響きに聞こえるんだ?


「ま、待って下さい。一体、僕から何の臭いがするって言うんですか!?」

「いや、どこかで嗅いだことはある感じなんだけど、えーっと……何だったかなぁ?」


 しばし思案するように目を彷徨わせる彼女。

 しかし突然――その表情が緊迫したものに変わる。


「しっ。……来るぞ」


 短い警告。慌てて口を閉じ、息を潜める。

 永遠にも思える、数秒間。固唾を飲んで、待つ。


 そして。

 ついに、その時が来た。

 その瞬間、空気が…………


「ここにいたのか、あおい


 ――ザッ。


 平坦な声。地面を踏みしめる足音に続いて、木々の間から檜来が姿を表す。


「檜来さん、異世界人が罠にかかっているのを見つけました。あの、朝早く目が覚めてしまって、それで檜来さんを起こすのも悪いので、僕が先に罠を見てお知らせしようと――」


 指をさし、用意しておいた言い訳を早口で並べ立てる。喉がカラカラに乾いてしょうがない。冷や汗が背筋を滑り落ちる。木の影が落ちて、檜来の表情が見えない。


 一見して、異世界人は見事に罠にかかったように見える。そう見えるように、してある。トリガーを解除し、ワイヤーが足を捕らえて見えるように、巻きつけた。実際には、あのワイヤーは何の拘束にもなっていない。だから異世界人は、彼女はいつでも自由に飛び出して……檜来をことが出来る。


「――獣人の第六感は、極めて優秀な危機察知能力だ。研ぎ澄まされ、鍛え抜かれた究極の。その正体は……優れた五感から得た情報と、生涯の経験から無意識に下される、総合的な危機判断」


 僕の言葉を聞いたのか、聞いていないのか。こちらの言葉には何も答えず、檜来は何事かを滔々とうとうと語り出す。殺害対象を目の前にしても何ら変わらない、平坦な口調。

 ……問題はない。そのはずだ。冷酷な殺人鬼と言えども、檜来が人間であることに変わりはない。熊ですら易々と殺せる彼女が、殺せないはずがない。ましてや、檜来は彼女が拘束されていると、そう思い込んでいるはずだ。問題なく殺せる。その、はずなのに……!


 ――ザッ。


「優秀であるが故に、獣人は第六感に頼りすぎる傾向がある。だが……いくら優秀と言えども、弱点はある。それは、最終的な判断基準が自身の知識や経験に基づくという点だ。すなわち、に対しては、どうしようもなく判断が……にぶる」

「てめぇ、さっきから何をゴチャゴチャと……!」


 唸る獣人かのじょ。もうすぐだ。もう数歩だけ檜来が近づけば、彼女の間合いに入る。そしたら一息で檜来の喉笛を噛みちぎって……それで、全て終わりだ。その……はずなのに。

 おかしい。がおかしい。僕の頭の中で、ガンガンと警鐘が鳴り響く。全てが作戦通りに進んでいるはずなのに、胸に沸き起こるこの強烈な違和感は何だ。何かを見落としている。僕は一体、何を……!


 ――ザザッ。


 あと一歩。彼女の間合いに入る直前で、男は――その足を止めた。

 光の無い眼が、彼女に向けられた。


「そして、はこの世界に関してあまりにも無知だ。車が何かも知らないから、怯えて山の中に逃げ込む。奴らはこの世界を知らない。科学と戦争の歴史を知らない。技術と殺戮の進歩を知らない。知らないからこそ――」


 強烈な胸騒ぎ。わからない。何故かはわからないけど……絶対に、このままでは


「――――やって!」

「オオオ゛オ゛オ゛オ゛ォッッ!」


 僕が叫ぶのと、殆ど同時。獣のような咆哮と共に、彼女は猛烈な勢いで飛び出そうと――。



 ――パンッ。



 乾いた破裂音が響いた。

 

「こうして、簡単に

「…………は?」


 呆気に取られた声と共に、彼女の身体が崩れ落ちる。

 彼女の右腿には、血の色の穴が開いている。



 ――パンッ。



 破裂音。乾いた、味気ない、風船が割れたような。

 彼女の左腿にも……赤いが開いた。


「……あああああああああああああああああああああああああああああアアアアッッッッッ!」


 遅れて認識した痛みに、鳴り響く彼女の絶叫。

 

「…………そ、んな」


 音の正体は、すぐにわかった。何が起きたか、見れば理解できた。


 いつの間にか。

 檜来の手には――が握られていた。

 ただの日本人には持ち得ない、本物の武器が。


「いつ詠唱を……なんだよっ、その魔術……!」


 なんとか立ちあがろうともがく彼女。しかしすぐに、脚が血を噴き出し崩れ落ちる。


「……思い出した。てめぇらのその臭い……だ! だ! あぉクソッ。そういうことかよ、てめえらハナから――」



 ――パンッ。



 彼女の頭が、はじけた。口から入った弾丸が貫通して、後ろに抜けた。後頭部から花が咲くように、赤い脳漿が飛び散った。


「…………あっ」



 ――パンッ。パンッ。



 三度みたび、頭が弾け飛んだ。目鼻立ちのくっきりしていた彼女の顔面は、一瞬で見る影もなく破壊された。

 そうして。それだけで。

 彼女は死んだ。


「…………な、んで」



 死んだ。

 殺された。

 また、僕の目の前で。僕のせいで。

 さっきまで、ああして話していたのに。僕の目の前で、生きていたのに。

 出来たはずだ。彼女を生かすことが、出来たはずだ。

 目を逸らしていなければ。僕が、正しく現実を直視していれば。

 あの男が、本物のを持っていることも……僕には、はずなのに。


 なのに、死んだ。みすみす目の前で、彼女を殺された。

 彼女は死んだ。死んだ死んだ。死んだ死んだ死んだ。死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ死んだ。


 ――また、僕のせいで。


 ポツ。

 ポツ。ポツ。


 水滴が、頬を叩く。とうとう雨が、降り出したのだろうか。


「あとひとり……」


 スン、と鼻を鳴らす音が聞こえる。


「……もう、来ているな」


 町の方を見ながら、檜来が静かに呟いた。

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