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 足が重い。息が切れる。じわじわと上がってきた気温に、汗が吹き出す。

 それでも、足を止めることはできなかった。時間は無い。檜来ひのきが目を覚ます前に、全てを終わらせなければならない。


「一つ目は……変化なし」


 記憶を辿り、昨日仕掛けた罠のポイントを見て回る。一目ではわからないように偽装されている。それでも近くまで来れば、罠の仕掛けられた場所は思い出せる。捕まった獲物も、罠が発動した痕跡も見えない。


「ハァっ……次……!」


 自分を叱咤し、足早に罠を見て回る。ちらりと上を見やれば、灰色の雲が空を覆いつつあった。暑くならなくてありがたい……けど、一雨くるかもしれない。


 二つ目。変化なし。

 三つ目。変化なし。

 四つ目。変化なし。

 五つ目。変化なし。


「次で、最後……」


 慣れない山道だから、余計に疲労は溜まる。鉛のように重い足を、意志の力で無理矢理に動かす。

 ……それでも。もしかしたら、との思いが頭をよぎり始める。自分のしていることは、全くの無駄骨なんじゃないか。自分の記憶した罠の場所が間違っていたんじゃないか? 異世界人は、まだ罠にかかっていないんじゃないか? 実はもう、異世界人は山にいないんじゃないか?

 いや、そもそも。あの熊の殺害が、異世界人の仕業だと確定したわけでもない。檜来ひのきがそう主張していた、根拠なんてそれだけだ。ましてや山の中にいるかどうかなんて、そんなことわかるはずが……。


 ついつい後ろ向きになる思考とは裏腹に、身体は着実に目的地の近くまで来ている。

 一歩づつ、近づきながら様子を伺う。林立する樹木に、視界は制限される。だから間近まで近づいてみるまでは、はっきりとはわからない。それでも遠目には……特に、変化は無さそうに見える。


「うーん、このへんに間違いない、と思うんだけど……」


 木々の間を縫って、とうとう罠を仕掛けたポイントまで来る。間違って罠を起動しないように気をつけながら、間近で設置地点を確認する。


「……やっぱり、罠が起動した後には見えない」


 昨日設置した状態から、外見上の変化は何もない。偽装でかけられた土の状態まで、そっくりそのままだ。罠が起動したけど取り逃がしたわけでも、捕まってから無理矢理に逃れたわけでもない。そもそもこの罠は……いや、昨日仕掛けた全ての罠が、起動すらしていない。


「まだ早かった? いややっぱり、そもそもここに異世界人なんて……」


 安堵半分、徒労感半分で、ふうっと肩の力を抜く。


「……ん?」


 その瞬間、キラリと光る何かが目に入った。地面の上に、何かが落ちている。


「……これ、は?」


 何気なく身を屈め、手を伸ばす。

 それは、毛だ。昨日見た、に輝く――獣の体毛。



「――――



 不意に。

 耳元で、声が聞こえた。

 低く突き刺すような声が、僕を貫いた。


「大声を出すな。聞かれたことにだけ答えろ。妙な動きを見せたら、即座にお前を


 有無をも言わせぬ殺気。聞き覚えのない、押し殺した声。とした何かが首にあてられる。背後から抱えるように、何者かに片手で頭を抑えられている。身動きが取れない。少しでも選択を誤れば……僕は今、確実に殺される。


「……は、い」


 カラカラの喉から、どうにか声を絞り出す。バクバクと、うるさいほどに心臓が脈打つ。ダラダラと、冷や汗が際限なく流れ落ちる。


「何者だ、お前。こんな罠を仕掛けやがって……なぜオレを狙っている!?」


 遅まきながら、状況を理解する。

 この異世界人は、罠にかからなかった。それどころか……罠に事前に気がついて、。罠を仕掛けた者は、いずれ獲物がかかったかどうかを見に来る。その時に身を潜めて狙っていれば、罠を仕掛けた人間を逆に捕らえることが出来る……!


「ち、違いますっ、誤解です!」

「何が誤解だ! お前は罠のある地点に迷わず来た。罠を仕掛けたのはお前だろ!」


 頭を掴む手に、ギリリと力が込められる。ヒヤリとした何かが少し喉に食い込み、皮膚を一枚切り裂く。ツウと垂れる血の感覚。激しい息遣いから、相手の怒りが伝わってくる。低めの声ではあるが、よく聞けば……女性の声、だろうか。


 ああ、そうか。僕はどこか、納得していた。この人は少し前から、こちらの様子を伺っていたんだ。そう誤解されても仕方のない状況ではある。実際に罠を仕掛けたのはあの檜来だけど、そんなことはわからないだろう。しかしどちらにせよ……今、そんなことを言い争っている時間はない。

 檜来の顔を思い出した瞬間、不思議と頭が冷えた。小屋を出て、どれだけの時間が経った? あの男はもう、起きただろうか? わからない。わからないけど、ほとんど時間は残されていないはずだ。手早く、最低限の時間で……あの男が来る前に、準備を完了させなければならない。


「……落ち着いて下さい。時間がありません。あなたは今、ある男に殺されようとしています」

「はあ? 何を言って……待て。お前、オレの言葉がわかるのか?」


 言葉。言われてみれば、普通に異世界人の言葉を理解できている。リラの魔法が……まだ僕に、力を貸してくれている。


『――ありがとう!』


 彼女の笑顔が、まぶたの裏に蘇る。ああ、そうだ。あの碧い目は……きっとまだ、僕を見てくれている。

 ……だから、僕は。


「細かい事情は後で説明します。とにかく、あなたが生き延びたいなら――」


 逃すだけでは、不十分だ。残念ながら、檜来の嗅覚は正確だった。あの男が言っていた通り、この山の中に異世界人はいた。だから、今この人を逃しても、それは根本的な解決にはならない。

 本当の意味であの男を止めるには。この異世界人を殺させないためには――。


「――あの男を、殺して下さい」


 もう、これ以外に手がない。

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