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ここはレジャー登山でよく使われるような、メジャーな山ではない。地元に住む僕でも名前も知らない、荒れたままの山。綺麗に整備された道なんて、当然の如く存在しない。辛うじて歩けそうな斜面を選びながら、どうにか足を運ぶ。スクールボストンバッグを両肩にかけて、背負うように持ち直す。ハアハアと乱れる息をどうにか抑えつけながら、額の汗を拭う。
「獣人への奇襲を成功させることは、不可能に近い。さっき言ったように、奴らの第六感を掻い潜ることが出来ないからだ」
そんな道中でも、
先行して進む檜来の負担は、自分よりも遥かに大きいはずだ。邪魔な枝を金属製の棒で打ち払いながら、地面を踏み固め、道を切り開いて進んでいる。それなのに、全く負担を感じている様子がない。体格差からも想像できていたことではあるけど、基本的な体力が段違いだ。
「だから、今回は別の手を使う。ワイヤーとバネを使った、簡単かつ強力な罠――くくり罠を仕掛ける」
スン、と時々鼻を鳴らしながら、檜来は迷いなく進んでいく。例の臭いとやらで、どこに向かえば良いかが、わかっているのだろうか。速いペース、こっちはどうにか着いていくだけで精一杯だ。
「くくり罠は通常の狩猟でも使われる、一般的な罠の一種だ。獲物がかかると輪状のワイヤーがバネで締め上げられて、対象の足を捕らえる。罠自体に殺傷能力は無いが、機動力さえ奪えば確実に殺す方法はいくらでもある。獣人であろうとその能力に関係なく、簡単に殺すことが出来る」
スン、と鼻を鳴らすと、不意に檜来は足を止める。少し周囲を見渡した後、何かに納得したように軽く頷く。
「まず、この辺に一つ目を設置する」
そう呟くとバッグを開け、ワイヤーなどを次々に取り出していく。
「罠は上手く使えば、強力で効果的な手段だ。ただし、それは実際に獲物が罠にかかれば、の話だ。奴らを上手く罠にかけるには、獲物が通りやすい設置場所、引っ掛かりやすい仕掛け方、見つかりにくいような偽装工作……様々な要素に気を配る必要がある」
罠を仕掛けながら、いつもと変わらない口調で話す檜来。異世界人を罠にかけ、殺す。やはりその事に、何の罪悪感も存在しないようだった。この男にとっては、獣を狩るのと同じように……いや、もしかしたら獣を狩る以上に、なんのことは無い作業なのだろう。
手早く仕掛けを済ませた檜来。立ち上がり、カバンを背負い直す。
「よし、ここはこれでいい。もう数カ所回って、同じように罠を設置する。歩けるか、
「……はい、大丈夫です」
口では、そう言った。正直、肉体的にはかなりキツイ。だけど僕は、着いて行くことを決めていた。この男が罠を仕掛けて回るのを、見届ける。そうする必要が、僕にはある。
「そうか。……ああ、そうだ。これを渡しておこう。カバンに入れておけ」
歩き出しかけた檜来は、しかし何かを思い出したように足を止める。そして、自分のバッグから何かのスプレー缶を取り出した。
「なんですか、これ?」
「熊避けスプレーだ。催涙スプレーの強力版、のようなものだ。数メートルしか射程はないし、過信は出来ないが……時間稼ぎくらいにはなる。それと、これを首にかけておけ」
そう言って檜来が渡してきたのは、紐が通されたホイッスルだった。
「警笛だ。はぐれたり、何かあった時はこれを鳴らして合図すればいい」
「…………あ、ありが――」
急なことに、しばし絶句してしまう。相変わらずではあるが、この男の考えは全く掴めない。異世界人への冷淡な殺意と他の印象が、絶対的に噛み合わない。しかし、ここで変に拒否しても怪しまれかねない。なんとかお礼を言いかけたところで、檜来はさっさと踵を返した。
「時間がない。行くぞ」
「は、はい」
気にしている様子は……ない。そのはずだ。ひと先ず胸を撫で下ろしながら、慌てて男の後を追う。青々と生い茂る木々の影の下、汗を拭きながら歩き出した。
† † †
檜来は点々と場所を変えながら、次々に罠を仕掛けていった。
合計6ヶ所の、罠ポイント。山の中だ。正確な位置までは自信が無い。だけど、大体の場所と、自分がわかる目印は……なんとか、密かに記憶した。
全ての罠を仕掛け終わる頃には、既に日が傾きかけていた。もちろん、罠は仕掛けて終わりではない。獲物がかかるまで、待つ必要がある。どうするのかと思っていたけど、檜来は既にその点も考えがあるようだった。
「やはり警戒されているな。あちらの動きは……まだ、ない。こっから先は、持久戦だ」
スン、と鼻を鳴らした檜来は、静かにそう言った。だが、その足取りに迷いはない。
しばらく檜来に着いて歩いていくと、朽ちかけた山小屋に辿り着いた。長い間使われていなかったように、あちこち痛んでいる。しかし、建物の形状を一応は保っているようだった。
「今夜はここで、奴の動きを待つ。山に何かが立ち入った気配を察知されているかもしれない……が、奴もいつまでも飲まず食わずでじっとしているわけにもいかない。いつかは動き出し、罠にかかるはずだ。そこを逃さず、確実に仕留める」
今から下山していては時間がかかりすぎるし、罠から離れ過ぎれば、仮に上手くかかったとしても、こちらが辿り着くまでに無理矢理に逃れてしまうかもしれない。罠を外すのは至難の技でも、最悪脚を引きちぎれば、逃れることは不可能ではない。檜来はそんなことを、静かに説明した。
「とは言っても、今日はもう動きはないだろう。あのタイプの獣人なら、夜目は効かない。奴が動き出すとしても明日、日が昇り出してからだ。それまでは、ゆっくり眠っていて良い」
「……はい、わかりました」
ひと通りそんな話をすると、檜来はすぐに横になり、目を閉じた。
「檜来さん。もう……寝たんですか?」
返事はない。呼吸は深いように見える。寝た……のかもしれない。しかし、自信はない。仮に寝ていたとしても、わずかな気配で目を覚ますかもしれない。この男は、どこまでも得体が知れない。ためしてみる気には、なれなかった。
「……おやすみなさい」
とりあえず、自分も寝たふりをする。スマホは……圏外だ。眠れる気はしないし、はなから寝る気もなかった。
静寂と暗闇の中、じっと身を潜め、ただその時を待つ。色々なことが、頭をよぎった。髭男のこと、リラのこと、家族のこと。花鈴さんと話した、バイトのこと。喫茶店に残してきた花鈴さんは、大丈夫だろうか。急に僕が連れて行かれたことで、驚いてはいないだろうか。彼女は、これから起きることに……どんな顔を、するだろうか。
やがて、真っ暗闇が薄く明るくなり始める。日が昇り始めてきた証拠だ。
「……」
そっと起き上がり、檜来の様子を見る。相変わらず、動きはない。おそらくまだ……眠っている。
「……行こう」
それだけを確かめて、僕は静かに山小屋から滑り出た。
※くくり罠は実際に使用される罠ですが、罠猟には資格が必要です。ご注意ください。
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