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山の麓。車道からそう離れていない木の下に、その熊の死体は転がされていた。花鈴さんが言っていたとおりだ。
間近で見ても信じ難い光景だ。熊の身体は大きく、大柄な檜来と比較してもさらに大きい。その鋭く伸びた爪がひとたび振るわれれば、人の体など容易く引き裂かれてしまうに違いない。脅威なはずだ。まともに相対することが出来るものなど、存在しないはずだ。それなのに、その恐ろしい山の主は――為す術もなく殺されている。
「喉を一撃、無駄がない。能力が高く、戦闘経験も豊富……」
ぶつぶつと呟きながらも、
喉を除き、他の部分に傷はない。抵抗をする暇もなく、一撃で殺された証拠だ。力強く振るわれる爪を掻い潜り、銃弾すらも容易には通さない分厚い毛皮を食い破り――たった、一撃で。
「で、でも今回はさすがに異世界人は関係ないですよ。だって喉を食いちぎるだなんてそんなこと、何かの獣しか――」
またしても「来い」の一言で、僕はここに連れてこられてしまった。震える声で、それでもせめてもの抵抗を試みる。しかし、目の前の光景が人間の所業だとも思えなかったのも事実だ。
「これを見ろ」
檜来は大きく抉られた喉の近くから何かを摘み上げ、僕に見せつける。
それは、何かの獣毛だった。熊の茶色い毛とは明らかに異なる、白銀色に輝く毛。何の毛だろう、この色はまるで――。
「狼? ……いや、日本に狼は」
いない。とっくに、絶滅している。ならば、あり得るのは……野犬、とか? いや、熊を殺せる野犬なんているはずが……。
「獣人だ」
平坦な口調で、檜来はそう言った。この男は、既に毛の正体を確信しているようだった。
「奴らは獣のような耳と尻尾、一部の体毛を有する。だが本当に注意すべき特徴は、外見よりもむしろ身体性能の方だ。超人的な瞬発力。鉄をも噛みちぎる破壊力。戦術を理解する、高い知能。どれを取っても、奴らの戦闘適正は極めて高い。それこそ、熊ですら相手にもならないほどに」
静かに語る檜来。しかしなぜだろう、獣人の高い能力を説明しているはずなのに、檜来自身は何の脅威も感じていないかのようだった。獣人を殺すことは既に決定していて、今はただ、その手順を確認している。そんな口調だった。
「そして、何より注意しなければならない点――奴らには第六感とすら言われる、異常な勘の良さがある。野生動物が持っているような、高い危機察知能力。だから、奴らに不意打ちは難しい。どころか、接近することすら不可能に近い。慎重に接近を試みたとしても、かなり距離がある段階で発見されるのがオチだ。それに、今回の相手は特に警戒心が強い」
周囲を注意深く見渡しながら、檜来の言葉は続く。わずかな痕跡すらも、対象を殺害するための有用な情報になる。そう言わんばかりだ。
「首尾よく熊を狩りながらも、喉部以外を食べた様子がない。奴らは無駄な狩りはしない。食事のために熊を殺したところで、おそらく……近くの道を車が通りがかりでもしたんだろう。異世界から来た奴らは、車が何かも知らない。未知の脅威を警戒して、急いでこの場を離れた。そんなところだろうな」
見てきたように、そう語る檜来。だけど……言われてみれば、たしかに。残された痕跡だけでも、ここで起きたことはありありと想像できる。熊の喉笛を食い破る異世界人。車を警戒して、すぐに立ち去る異世界人。まるで――獣のような行動だ。
「一見わかりにくいが……見ろ、山の方向にも痕跡が残っている。折れた枝、踏みしめられた地面、そして何より――この体毛」
身を屈め、摘み上げたそれは。さっき見たのとそっくり同じような、白銀色に輝く獣毛だった。
「奴は、山の中にいる」
「ま、待ってください!」
まずい。完全にペースに飲まれていた。感心している場合じゃない、何とかこの男を引き止めないと。
そうしなければ、また……また、誰かが殺される。また、僕の目の前で。
「一旦山の方に向かったとしても、今も山の中にいるとは限らないですよ。もしかしたら、もうとっくにどこか遠くへ行ってしまったかも。そうじゃないですか?」
とにかく、必死で言葉を紡ぐ。本当かどうかはどうでもいい。少しでもこの男を引き止める可能性を、何とか、しないと……!
だが。
僕のそんな儚い抵抗は、何の意味もなさなかった。
「いいや、それはない」
スン、と鼻を鳴らしながら、檜来は言下に否定した。
「間違いようがない。奴の臭いは今も、山の中から来ている」
「に、臭い?」
何かの例え、だろうか。それともなにか、特別な臭いが……?
自分でも周囲の臭いを嗅いでみる。土の匂い、草の匂い、山の匂い。血の匂い、熊の死体から発せられる、独特の死臭。
「異世界人に特有の、あの臭いだ。例外なく奴らの身体から絶えず発せられる、あのドブ川のような、強烈な臭い。それがこの毛からも、あの山の中からも、間違いようもなくプンプンと漂っている。わかるだろ?」
「…………」
わからない。何を言っているんだ、この男は。ドブ川のような臭い? そんなものを、感じたことがない。リラからも、髭男からも……もちろん今も。そんな臭いは、まったく感じない。感じたことがない。
「この臭いが、奴らの居場所を教えてくれる。どこに隠れようとも、この臭いを辿って、俺は奴らを追い詰める。どこまでも、追って追って追って追って追って追い詰めて、そして奴らを――」
わからない。この男の言っている臭いが、何なのか。どうしてこの男が、異世界人の居場所を確信できるのか。どうしてそうまで、執拗な殺意を抱けるのか。
「異世界人を全員殺す」
だけど、と思う。ひとつ、わかったこともある。この男の殺害を止めるには、逃がすだけではダメなのだ。一時的に異世界人を逃したとしても、それでは不十分なのだ。どういうわけか、この男は再び異世界人を見つけ出してしまう。探して、見つけて、いつか殺してしまう。だから、それだけでは……不十分なのだ。
車から何やら大きめのデイバッグを取り出してきた檜来が、声をかけてくる。
「準備は出来た。行くぞ、葵」
何をすればいいのか。何をするべきなのか、僕は、何をするのか。
それはもう、どうしようもなく決まっている。
ふと、思った。
あの碧い眼は、まだ――僕を、見ているのだろうか。
「……はい、檜来さん」
ギラギラと照りつける陽光の下。
僕たちは、鬱蒼とした山道を歩き始めた。
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