2/7

 口をつける前からフワッと立ち上る香り。サッパリとした苦味、まろやかな飲み口。

 これは、すっごく……。


「おいっしい! こんなコーヒー、はじめてです!」

「でっしょ〜? 正直者は好きだぞぉ。こう見えて、色々こだわってるからね! よしっ、サンドイッチだけじゃなくて、ケーキもサービスしちゃおう!」

「いえっ、そんな悪いので……」

「いいからいいから。遠慮なく食べて!」

「あ、あはは……」


 コーヒーも美味しいけど、サンドイッチも絶品だ。花鈴かりんさんの言葉に素直に甘えていたら、ついつい食べ過ぎてしまいそうで危ない。

 ……それにしても。


「いいお店ですね、ここ」


 落ち着いた木目調で統一された店内。ゆっくりと回るシーリングファン。静かに流れるクラシック音楽。ゆったりと休めるソファ席もあって、全体的にシックな雰囲気だ。


「ふふっ、ありがと。気に入ってもらえたかな?」

「はい。こういう雰囲気、大好きです」

「おーおー、嬉しいこと言ってくれるじゃん! もうひとつケーキいる?」

「いえっ、そういう意味じゃなくて! 本当に……」


 本当に、いい所だ。ここには、穏やかで平和な時間が流れている。ここには血も流れていないし、死の匂いもしない。ゆったりと力を抜いて、日常を過ごせる場所。

 こんなところに……連れてきたかったな。ふと、そんなことを思った。


「……あの、花鈴さん」

「んー、どうした?」

「また、ここに来ても……いいですか」


 気がつけば、そんなことを言い出していた。なぜかはわからない。でも、またここに戻って来たいと思った。それが僕の、素直な気持ちだった。


「うん、もちろん」


 唐突な申し出にも関わらず、花鈴さんは驚くこともなく答えてくれた。


「あのね。ここに来た時のキミは、本当に酷い顔色をしてた。気絶してる間も、目が覚めた時もね」


 そっと僕の頭を撫でながら、彼女は穏やかに微笑む。


「何があったのか、詳しくは聞かない。なのは……なんとなく、わかるしね」

「……っ」

「でも、ね」


 半ば反射的に、身体が竦んだ。でも、かけられる声は温かくて、優しかった。


「そんなこと関係ないよ。ここでは、外の事なんて気にしなくて良い。キミが元気になってくれたなら、少しでもここを気に入ってくれたなら、本当に良かったよ」


 思わぬ言葉に、目頭が熱くなった。ずっと悪夢の中にいた僕が、久しぶりに感じた優しさだった。彼女の手の温もりが、心地よかった。手首から、ふわっと良い香りがした。


「いつでも大歓迎。来たくなったら、またおいで」

「…………ありがとう、ございます」


 やっと一言だけ、それが精一杯だった。それ以上を口にしたら、何もかも止められなくなりそうだった。胸に込み上げるものが、溢れてしまいだった。


「あーーーーーーーーーっ! そうだっ、良いこと思いついた!」


 しんみりした空気から一転。パンっと手を合わせながら、花梨さんは急に大きな声を出した。


「そんなに気に入ったなら、ここでバイトしてみない!?」

「……へっ!?」


 思ってもみない話の流れに、戸惑いを隠せない。この店で、働ける? 本当に? それは、とっても素敵な提案に思えた。

 いや……だけど。


「い、いえ、無理です。僕なんかが……」

「どうして?」

「だって、その、花鈴さんみたいに素敵でもないですし……」


 それに、上手く思い描けない。僕が、真っ当に働く? この穢れた両手で、普通のフリをして、笑顔で接客をする? そんなことが出来るとは……とても、思えなかった。


「大丈夫、心配ないって。キミ、可愛い顔してるし!」

「うぇっ!? いえ、その、可愛いなんて……」


 そんなこと、はじめて言われた。自分の容姿を好きだと思ったことはない。いつも目を伏せて、なるべく鏡を見ないように過ごしてきた。


「素材が良いし、磨けばもっともっと光ると見た。目一杯お洒落してさ、私と一緒に働こうよ。髪型変えてみたり、ピアス開けてみたり、どう?」

「ピ、ピアスですか!?」


 りん、と彼女の耳に揺れる小さな鈴が目に入る。例えばこんなピアスを、僕の耳にも……?


「い、良いんでしょうか、そんな」

「何が良いかなんて、そんなの自分次第だよ。大事なのは、キミがどうしたいか。そうでしょ?」

「僕が……どうしたいか」


 そんな風に考えたことはなかった。そんな風に考えて良いなんて、そんなこと……はじめて、言ってもらえた。

 

「今すぐに決めなくても良いからさ、ゆっくり考えてみてよ。今度また、返事聞かせて。ね?」

「……ありがとうございます。色々と片付いたら……その時に、必ず」


 花鈴さんの優しさが、ジーンとしみる。本当にこの店で働けたら、どんなに良いだろう。花鈴さんと笑い合って、穏やかに、この素敵な店で。それはきっと、夢のような日々に違いない。

 ――でも。


「……ところで」


 今はまだ、その時ではない。

 僕はまだ……悪夢の中から、抜け出せずにいるのだから。


檜来ひのきさんは、どこに」

「アイツなら、仕事場に顔出しに行ったよ。でも多分、すぐに戻ってくるよ」


 花鈴さんはスマホを少し操作すると、画面をこちらに見せながら言った。


「またを教えてあげたから、話を聞きにね」


 画面には、奇妙な写真が映し出されていた。

 それは、横たえれた熊の死体を撮影したものだ。一目で死体だとわかった。だって、その喉は、赤く血に濡れていたから。いや……よく見れば、もっと酷い。


「……そんな、バカな」


 その熊の喉笛は――に噛みちぎられていた。犬のような噛み跡を残して、喉の肉が、ゴッソリと削り取られていた。



「友達が偶然見つけたらしいんだけどさ、不思議だよねこれ。熊みたいな強い動物を殺しちゃうなんて……一体、どんな猛獣なんだろうね?」


 花鈴さんの明るい声も、もうあまり頭に入って来ない。

 ……ありえない。あるはずがない。熊が、生態系の頂点に君臨する動物が。殺されるなんて、喉笛を食い破られるなんて。に考えて、そんなことを出来る生物は存在しない。そんなことを出来るとすれば、それは……!



 ――カラン、コロン。



 入り口に据え付けられたドアベルの音が、来店者の存在を告げる。


「いらっしゃいま――」

「写真が撮られた場所を教えろ、花鈴」


 低く、平坦な男の声がした。聞き間違えるはずのない、悪夢のようなあの声が。


「――――異世界人だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る