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ヒュッ、と息が喉から漏れた。
思わず、一歩後ずさる。理屈で考えるよりも先に、身体が勝手に動く。
食べてる。なんで。そんな、猫を。なんで、イヤだ。イヤだイヤだイヤだ。
「なんじゃああ゛っお前はああ゛!?」
髭男は、小柄な身体からは想像も出来ないほどのバカでかい声を発する。その大音量は空気を震わし、僕の身体を萎縮させる。
「いや、あの」
「邪魔をするんでねええ゛え゛え゛っ!」
髭男は聞き耳を持たずに、一方的にがなり立てる。
そして苛立ちを示すように、片足で地面を激しく踏みつける。
ドスン。
「うわっ!」
ぐらり、と。地面が、ビルが、丸ごと揺れる。一瞬の激しい振動、高く立ち昇る埃。
バランスを取りきれなかった僕は後ろにこけ、あえなく尻餅をつく。
「い、てて……」
信じられない、とんでもない馬鹿力。 たったあれだけの動作で、こんなに衝撃が。
「何とか……言わんかああああ゛あ゛っ!?」
「ひいぃっ!?」
叩きつけられる怒声。反射的に目を閉じ、頭を抱える。
そんな、理不尽だ。こっちの言葉を遮ったのは、そっちじゃないか。そんな思考を言語化する余裕はもはや無い。とにかく何かを――何か言わなければ。
「ご、ごめん、なさ――」
「あああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛んっ!?」
「いぃぃぃぃぃっ!?」
怖い。怖い怖い怖い。なんでだよ、なんでっ、怒鳴られてるんだよぉっ。
ずりずりと、尻餅をついたままずり下がる。怖い。イヤだ、逃げたい。
「はっっっきりっ喋らんかぁあああああああああ゛あ゛っ!!!」
絶叫と共に。
髭男は、両手に握りしめていた猫の死体を――真っ二つに引き裂いた。いとも簡単に、チーズでも割くように。
ピシャッ、と暖かいモノが顔にかかり。
「……あ」
一拍遅れて認識する。
それは、猫だったモノの、血と
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
死ぬ。殺される。あの猫のように引き裂かれて、怪力に潰されて、抵抗する間もなく。理不尽に、滅茶苦茶に、グチャグチャに殺される。イヤだっ。死ぬっ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬっ。
「肉がっっ無駄にっっなったじゃねえかああああ゛あ゛っ!!!」
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
必死だった。わけもわからないまま、何かを繰り返し叫んだ。ずり下がり続けた背中は、壁にぶつかって止まる。逃げられない。腰はとっくに抜けている。
「どうしてくれるんだああああああ゛あ゛っ!?」
「ごめんなさあああああああああああああああああああああああああああああああああいっ」
なんでなんでなんで僕はなんで殺されるんだ僕はなんでここにいる僕は何をしにここに来た違うだろ僕は殺されに来たんじゃない僕は助けに来たはずだ僕はこの男を逃すために僕はこの男が殺されないようにこの男のためにこの男のためにこの男のためになのになのになのになのになのになのにどうしてどうしてどうしてどうして――。
「俺の邪魔をっするんでねええええええええええ゛え゛え゛っ!」
――どうして、こうなる。
詰め寄ってくる髭男の動作が、やけにゆっくり見えた。
どうしてこの男の命を助けるために来た僕が、逆に殺されようとしているんだろう。
こんなことなら、大人しく下で待っていればよかった。こんなことなら、助けようとなんてしなければ良かった。こんなことなら、こんな男がどうなったって……良かったじゃないか。
そうだよ。死ぬべきは、僕じゃない。
この男が、この異世界人が。
こいつが――――。
ずごっ、と。
不意に、鈍い音が響いた。
「…………あ゛?」
短い疑問の声だけを残し。
髭男は白目を向いて気絶し、膝から崩れ落ちる。
自分の身に何が起きたのか。彼はきっと、最期まで理解できなかっただろう。
ぐしゃり、と崩れる髭男の背後には、
べったりと血の付いた金槌を握りしめて、殺人鬼が立っていた。
ずごっ、ずごっ、すごっ。
何度も繰り返される、鈍い音。
檜来は倒れ伏す髭男の頭部を、金槌で何度も殴りつけた。
その光景を見て、僕はどこか納得していた。
さっきの音は……後頭部を殴り付けた音だったのか、と。
ずごっ、ずごっ、すごっ、ずごっ、ずごっ、すごっ。
檜来は髭男の頭部を、何度も殴り続けた。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も、執拗に殴り続けた。
皮膚が裂け、鮮血が吹き出した。
頭蓋が砕け、脳漿が飛び散った。
眼球が潰れ、鼻が折れ、歯が散乱した。
檜来が槌を振るうたびに、髭男は本来の形を失っていった。
ずごっ、ずごっ、すごっ、ずごっ、ずごっ、すごっ、ずごっ、ずごっ、すごっ。
執拗に破壊を繰り返しながらも、檜来の顔には何の表情も浮かんでいなかった。目の前の酸鼻を極める光景も、水色のワイシャツが返り血で赤黒く染まることも、何ら気にかけていないようだった。
彼にとって、それは何でもない作業なのだろう。まだ息がある可能性を踏まえて、確実に止めを刺しているに過ぎない。捕らえた虫を、念入りに押し潰すように。
――やがて原型がわからなくなるほどに頭部を損壊させると、ようやく檜来は手を止めた。
「理想的な奇襲だった」
出し抜けに話し始めた檜来の声には、やはり何の感情も見えなかった。
「可能であれば――誰かが囮になって、注意を引きつける。それが、一番成功率の高い奇襲方法だ」
誰か。
それは……僕のことか?
僕のおかげで上手く殺せた――この男は今、そう言ったのか?
「ち、ちが……」
違う。囮になるつもりなんてなかった。殺害を手助けする気なんてなかった。僕は助けようとしただけで、だからあの男が殺されることなんて望んでなくて――。
――本当にそうだろうか?
髭男が殺される直前の、あの一瞬。
あの時、僕は何を願っていた?
あの男が助かることを、祈っていたか?
あの男を助けようとしたことを、後悔してはいなかったか?
いや、それどころか。
あの男がどうなってもいい、と。
あいつが――――死ねばいいのに、と。
……そう、願っていたじゃないか。
髭男の死体は無造作に転がされている。首から上は、そこに顔があったことすら想像できないほどに破壊され尽くされている。飛び散った血と脳漿は、引き裂かれた猫の臓物とグチャグチャに混じり合っている。
それが、結果だった。僕の行動がもたらした、悪夢のような現実だった。
「よくやった、
檜来は短く言って。
ひくり、と頬を引き攣らせた。
ああ。この
僕はただ、そんな事だけを考えていた。
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