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「魔法、怪力、第六感、特殊な『加護』。異世界人の中には、そんな厄介な能力を有する者も少なくない。だから、奴らと正面から対峙するのは得策ではない。奴らを殺すためには、相応の手段が必要になる」
話しながらも、
「効果的なのは罠、
その口調は、今夜のレシピを説明しているかのようだ。殺人の手法を語っているとはとても思えない。まるで、現実味がない。
「しかし、気配を感じ取らせずに接近することは、意外と難しい。何かに注意を向けている時や、油断しているタイミングを見計らうのがベストだ。性交や食事をしている時も隙が出来やすい、狙い目だ」
わかっている。こんな思考は、ただの現実逃避でしかない。どんなに悪夢のような状況に思えても、これは間違いなく現実だ。一歩一歩廃ビルに近づく毎に、次なる惨劇の時もまた、近づいている。震える手を握り締めながら、それを再認識する。
「――以上を踏まえて、」
とうとう、廃ビルの前まで来てしまった。
どうする? どうすればいい? このままビルに入れば、この男は異世界人を見つけ、殺してしまうに違いない。何か、何か考えないと――。
「俺は裏口から入って中を探る。正面入り口からのルートは警戒されている可能性が高いからな。その間、葵くんはここに残っていてくれ」
「えっ?」
てっきり、自分も中まで着いて行かなければいけないのかと思っていた。少しホッとすると同時に、そんな自分に嫌悪感を覚える。何を考えているんだ、僕は。自分が行かなくたって、誰かが殺されてしまうことに違いはない。目の前で死ぬか、自分の見えないところで死ぬか、その違いでしかない。いや、でも……じゃあ、どうして自分を連れてきたんだ、この男は?
「正面口から奴が出てこないか、それを見張っていて欲しい。物陰から覗き見て、出てきたら連絡してくれれば良い」
「はい、あっ、いや」
首を縦に振りかけて、慌てて止める。そういう役割分担か、と思わず納得しかけてしまった。
しかし、そんな僕の様子を、男はなにやら勘違いしたらしい。
「そうか、番号がわからないか」
男はスマホを取り出すと迷わず何度かタップする。
するとポケットの中で、ブルルル、と僕のスマホが震えた。
「今の番号にかければいい。じゃあ、頼んだぞ」
「あ……」
足が竦んだ。何かを言おうとして、言葉にはならなかった。
やはり、あの男は僕の生徒手帳の中身を見ていたのだ。しかも、その内容を暗記している。
その事実に……僕は、呆然と男を見送るしかなかった。
† † †
檜来がビルの裏に姿を消した後。
しばらくしてから、僕は大きく深呼吸した。
「ふぅー……」
悪夢のような現状に、そう変わりはない。依然、次の犠牲者は目と鼻の先にいる。個人情報を握っている檜来に逆らうのは、あまりにも危険だ。
でも、今の状況は――チャンスだ。
檜来は奇襲を成功させるために、慎重にビルの中を進むはずだ。ターゲットの異世界人に接触するまでは、まだ時間がある。だから、その間に……僕が異世界人を逃がす。檜来より先に異世界人に接触し、危機を伝えて逃亡を促す。上手くいけば檜来に見つかることなく、殺害も阻止できる。檜来への連絡は、少し遅れて何食わぬ顔ですれば良い。
「……よしっ、行こう」
歯を食いしばり、震える足を無理矢理動かし、一歩踏み出す。
怖くても、危険でも、逃げ出したくても。僕は、そうしなければならない。
だって……あの碧い眼が、まだ僕を見ている。そんな気がするから。
踏み込んだ廃ビルの中は、薄暗かった。
蛍光灯は軒並み割れていて、使い物になりそうもない。いや、そもそもとっくに電気が来ていないのだろう。それでも、今は日中だ。割れた窓から外の光が差し込んで、真っ暗には程遠い。
「どこに……」
一歩動くごとに長年蓄積した埃が舞い上がり、鼻を不快に刺激する。
どこに、どこにいる。しらみ潰しにフロアを調べていくべきか? いや、それでは檜来に先を越されてしまうかも。それでは意味がない、先回りするためには、何か手がかりを……。
そう考え、周りを見渡す。すると、ふと気になるものが目に入った。
「……血痕?」
そんなに大きな血痕ではない。ぽたりと一滴垂れた、いかにもそんな感じの血の跡。
指先でそっと触れてみると、まだ完全に乾き切ってはいなかった。だけど乾きかけの、少しドロッとした感触がある。たった今ついた血痕ではない。
「怪我をしている、のかな……?」
時間的に見て、檜来の残したものではない。この廃ビルに先んじて入った何者かが、異世界人が残したものだ。
よく見れば、同様の小さい血痕が入口から階段までポツポツと続いている。よしっ。これを辿れば、異世界人のいるところまで容易に辿り着ける……!
トン、トン、トン。
軽い足音をたてて、薄暗い階段を駆け上がる。見えにくくとも、降り積もった埃の上に点々と血痕は残っている。見失わない、必ず見つけ出す。はやく、はやく、はやく。
トン、トン、トン。
時々目の前に現れる蜘蛛の巣を払い除けながら進む。ネチャリとした感触が、巣に絡め取られていた羽虫が、何故か気に障った。血痕を追う。助けるんだ、絶対。はやく、はやく、はやく。
トン、トン、トン。
そろそろ最上階のはずだ。血痕は、暗がりの先、階段の最上部まで続いている。あそこに、異世界人が……。
――ペチャリ。
何か、粘ついた音がした。
思わず、軽快に動いていた足が止まる。ザワり、と嫌な予感がよぎる。
ペチャ、ペチャ、ペチャ。
何かを啜るようなその音は、階段を上り切ったその先、最上階の中から響いている。
ここからでは、音している辺りはまだ、死角になっていて見えない。
ペチャチャ、ペチャチャ、ペチャチャ。
一段ずつ、慎重に階段を上る。
薄明かりの中が、少しずつ見えてくる。何かが、誰かが、うずくまっている。しゃがみ込み、抱えこんだ何かを……食べて、いる?
――ペチャリ。
見知らぬ男だった。薄汚れた、小柄な人間だった。しかしよく見れば、筋骨はよく発達しているようだった。それはこちらに背中を向け、一心不乱に何かを食していた。血痕の先で、何かを、貪っていた。
「……あ、の」
何故か、その一言がひどく躊躇われた。声をかけたくないとさえ、思った。危険を冒してまで来たはずだったのに。必死に先を急いで、来たはずだったのに。彼を助けるために……僕は、ここにいるはずなのに。
そんな控えめな声掛けでは、彼の耳に届かなかったらしい。男は依然、何かを貪ることをやめていない。
「あのっ!」
意を決して、少し大きな声を出す。
さすがに、これは聞こえたらしい。ぴたり、と動きを止めたそれは、ようやく貪るために下げていた顔を上げ――叫んだ。
「あ゛あ゛あ゛んっ!?」
ビリビリと、鼓膜が破れるかのような感覚。
たまらず耳を抑えながらも、僕は見た。見てしまった。
叫びながら振り向いたその男の顎。そこには、長い髭が伸びていて。
粗雑に伸びた髭には、赤い血が、ベッタリとついていて。
男が抱えていた何かは、血を吸い、肉を貪られていた何かは。
それは、街中でもよく見かけるありふれた小動物――――つまり、猫の死体だった。
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