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「魔法、怪力、第六感、特殊な『加護』。異世界人の中には、そんな厄介な能力を有する者も少なくない。だから、奴らと正面から対峙するのは得策ではない。奴らを殺すためには、相応の手段が必要になる」


 話しながらも、檜来ひのきは廃ビルに向かう足を止めない。どういうわけか、そこに異世界人ドワーフがいる事を確信しているようだった。


「効果的なのは罠、待ち伏せアンブッシュ、そして奇襲だ。特に奇襲、つまり不意打ちは手間がかからないし成功すれば効果が高い。急所に一撃、それだけで無抵抗の内に相手を殺せる。もっとも、急所を潰しただけでは安心できない。しぶとく足掻き、中々死なない個体も存在する。十分注意が必要だ。特に、長命種はその傾向が強い」


 その口調は、今夜のレシピを説明しているかのようだ。殺人の手法を語っているとはとても思えない。まるで、現実味がない。


「しかし、気配を感じ取らせずに接近することは、意外と難しい。何かに注意を向けている時や、油断しているタイミングを見計らうのがベストだ。性交や食事をしている時も隙が出来やすい、狙い目だ」


 わかっている。こんな思考は、ただの現実逃避でしかない。どんなに悪夢のような状況に思えても、これは間違いなく現実だ。一歩一歩廃ビルに近づく毎に、次なる惨劇の時もまた、近づいている。震える手を握り締めながら、それを再認識する。


「――以上を踏まえて、」


 とうとう、廃ビルの前まで来てしまった。

 どうする? どうすればいい? このままビルに入れば、この男は異世界人を見つけ、殺してしまうに違いない。何か、何か考えないと――。


「俺は裏口から入って中を探る。正面入り口からのルートは警戒されている可能性が高いからな。その間、葵くんはここに残っていてくれ」

「えっ?」


 てっきり、自分も中まで着いて行かなければいけないのかと思っていた。少しホッとすると同時に、そんな自分に嫌悪感を覚える。何を考えているんだ、僕は。自分が行かなくたって、誰かが殺されてしまうことに違いはない。目の前で死ぬか、自分の見えないところで死ぬか、その違いでしかない。いや、でも……じゃあ、どうして自分を連れてきたんだ、この男は?


「正面口から奴が出てこないか、それを見張っていて欲しい。物陰から覗き見て、出てきたら連絡してくれれば良い」

「はい、あっ、いや」


 首を縦に振りかけて、慌てて止める。そういう役割分担か、と思わず納得しかけてしまった。

 しかし、そんな僕の様子を、男はなにやら勘違いしたらしい。


「そうか、番号がわからないか」


 男はスマホを取り出すと迷わず何度かタップする。

 するとポケットの中で、ブルルル、と僕のスマホが震えた。


「今の番号にかければいい。じゃあ、頼んだぞ」

「あ……」


 足が竦んだ。何かを言おうとして、言葉にはならなかった。

 やはり、あの男は僕の生徒手帳の中身を見ていたのだ。しかも、その内容を暗記している。

 その事実に……僕は、呆然と男を見送るしかなかった。




 † † †




 檜来がビルの裏に姿を消した後。

 しばらくしてから、僕は大きく深呼吸した。


「ふぅー……」


 悪夢のような現状に、そう変わりはない。依然、次の犠牲者は目と鼻の先にいる。個人情報を握っている檜来に逆らうのは、あまりにも危険だ。


 でも、今の状況は――チャンスだ。

 檜来は奇襲を成功させるために、慎重にビルの中を進むはずだ。ターゲットの異世界人に接触するまでは、まだ時間がある。だから、その間に……僕が異世界人を逃がす。檜来より先に異世界人に接触し、危機を伝えて逃亡を促す。上手くいけば檜来に見つかることなく、殺害も阻止できる。檜来への連絡は、少し遅れて何食わぬ顔ですれば良い。


「……よしっ、行こう」


 歯を食いしばり、震える足を無理矢理動かし、一歩踏み出す。

 怖くても、危険でも、逃げ出したくても。僕は、そうしなければならない。

 だって……あの碧い眼が、まだ僕を見ている。そんな気がするから。




 踏み込んだ廃ビルの中は、薄暗かった。

 蛍光灯は軒並み割れていて、使い物になりそうもない。いや、そもそもとっくに電気が来ていないのだろう。それでも、今は日中だ。割れた窓から外の光が差し込んで、真っ暗には程遠い。


「どこに……」


 一歩動くごとに長年蓄積した埃が舞い上がり、鼻を不快に刺激する。

 どこに、どこにいる。しらみ潰しにフロアを調べていくべきか? いや、それでは檜来に先を越されてしまうかも。それでは意味がない、先回りするためには、何か手がかりを……。

 そう考え、周りを見渡す。すると、ふと気になるものが目に入った。


「……血痕?」


 そんなに大きな血痕ではない。ぽたりと一滴垂れた、いかにもそんな感じの血の跡。

 指先でそっと触れてみると、まだ完全に乾き切ってはいなかった。だけど乾きかけの、少しドロッとした感触がある。たった今ついた血痕ではない。


「怪我をしている、のかな……?」


 時間的に見て、檜来の残したものではない。この廃ビルに先んじて入った何者かが、異世界人が残したものだ。

 よく見れば、同様の小さい血痕が入口から階段までポツポツと続いている。よしっ。これを辿れば、異世界人のいるところまで容易に辿り着ける……!


 トン、トン、トン。


 軽い足音をたてて、薄暗い階段を駆け上がる。見えにくくとも、降り積もった埃の上に点々と血痕は残っている。見失わない、必ず見つけ出す。はやく、はやく、はやく。


 トン、トン、トン。


 時々目の前に現れる蜘蛛の巣を払い除けながら進む。ネチャリとした感触が、巣に絡め取られていた羽虫が、何故か気に障った。血痕を追う。助けるんだ、絶対。はやく、はやく、はやく。


 トン、トン、トン。


 そろそろ最上階のはずだ。血痕は、暗がりの先、階段の最上部まで続いている。あそこに、異世界人が……。


 ――ペチャリ。


 何か、粘ついた音がした。

 思わず、軽快に動いていた足が止まる。ザワり、と嫌な予感がよぎる。


 ペチャ、ペチャ、ペチャ。


 何かを啜るようなその音は、階段を上り切ったその先、最上階の中から響いている。

 ここからでは、音している辺りはまだ、死角になっていて見えない。


 ペチャチャ、ペチャチャ、ペチャチャ。


 一段ずつ、慎重に階段を上る。

 薄明かりの中が、少しずつ見えてくる。何かが、誰かが、うずくまっている。しゃがみ込み、抱えこんだ何かを……食べて、いる?


 ――ペチャリ。


 見知らぬ男だった。薄汚れた、小柄な人間だった。しかしよく見れば、筋骨はよく発達しているようだった。はこちらに背中を向け、一心不乱に何かを食していた。血痕の先で、何かを、貪っていた。


「……あ、の」


 何故か、その一言がひどく躊躇われた。声をかけたくないとさえ、思った。危険を冒してまで来たはずだったのに。必死に先を急いで、来たはずだったのに。彼を助けるために……僕は、ここにいるはずなのに。


 そんな控えめな声掛けでは、彼の耳に届かなかったらしい。男は依然、何かを貪ることをやめていない。


「あのっ!」


 意を決して、少し大きな声を出す。

 さすがに、これは聞こえたらしい。ぴたり、と動きを止めたは、ようやく貪るために下げていた顔を上げ――叫んだ。



「あ゛あ゛あ゛んっ!?」



 ビリビリと、鼓膜が破れるかのような感覚。

 たまらず耳を抑えながらも、僕は見た。見てしまった。


 叫びながら振り向いたその男の顎。そこには、長い髭が伸びていて。

 粗雑に伸びた髭には、赤い血が、ベッタリとついていて。

 男が抱えていたは、血を吸い、肉を貪られていたは。

 それは、街中でもよく見かけるありふれた小動物――――つまり、の死体だった。

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