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 もはや自分の意思とは無関係に胃は蠕動ぜんどうを繰り返し、行き場を無くした胃酸が食道を逆流してくる。


「うっ……うぅおぉげぇええぇ……」


 今日何度目かの嘔吐を、便器の中にぶちまける。胃の内容物は、とっくに吐き尽くした。吐き出す物の無い身体は、それでも無理矢理に消化液を吐き出していた。


「ふぅぅーっ……はぁー…………はぁ……はぁ……」


 何とか荒れた呼吸を落ち着かせながら、ヒリヒリと焼けた食道の不快感をやり過ごす。吐き出した胃酸の放つ独特の臭気が、鼻の奥に突き刺さる。


 気分も体調も、最悪だった。彼女の事が、頭を離れそうになかった。


「リラ……」


 こうしている間にも、美しく笑った彼女の身体は、あのバスタブの中で溶かされている。皮膚も、肉も、あの碧眼も。細胞の一個一個までもが薬品に侵され、ジワジワと溶解され始めている。やがて全身を溶かされたは、すっかり原形を留めていない、ドロドロとしたゲル状の物質に変わり果てるのだろう。


「うぅ……うぅっ……」


 吐き続けながらも、ずっと嗚咽が止まらなかった。後悔なのか、同情なのか。自分でも、自分の感情を理解できていなかった。ただ、「死ぬのが怖い」と震える彼女の姿と、最後の笑顔だけが脳裏に浮かび続けていた。



 トイレを出て廊下を歩くと、キッチンの近くで男――檜来ひのきが何かをしているのが見えた。


「……大抵の場合、」


 僕が近寄るのに気が付いたのだろう、檜来は目線は手元に向けたまま話し始めた。彼は、何かの布をハサミで細かく切り刻んでいるようだった。


「奴らの衣服も、あの薬品に溶ける。その場合は、わざわざ別に処理する必要はない。ただ、中には特殊な素材を使っていて、溶けにくいケースもある」


 男の持つ布。それがリラが身につけていた衣服であることに、僕はようやく気がついた。


「だから、衣服は別に処理したほうが確実だ。燃やせる場合は燃やす、そうでなくても細かくしてゴミに混ぜれば、まず問題はない」


 男はコンロに火をつけ、布の欠片をべていく。細かく刻まれた布切れは、容易に燃え尽きて灰になっていった。

 ああ、これで。彼女がこの世界にいた証拠は、綺麗に消え去る。

 たったひとつ――を除いて。


「僕を……」


 殺すんですか、と。言おうとして、だけど言葉にはならなかった。そもそも、それを聞いてどうするつもりなのか。何の考えも、思い浮かばなかった。僕はただ身を竦めて、震える声で……それでも何かを口にしないと、恐怖に押し潰されそうだった。


 男はチラリと掛け時計を見やると、ふと思い出したように言った。


「大分遅くなったな。丁度いい、今日はここに泊まっていけ」

「え……」


 慌てて男の視線を追うと、たしかに時計の針は深夜であることを示していた。どうやら、僕は随分長い間、トイレにこもっていたらしい。

 だが……泊まっていけとは、どういう意味だろう。今日は殺さない、そういう事だろうか。

 ただでさえ混乱していた僕は、続く男の言葉に更に困惑させられた。


「親御さんにも連絡を入れておけ。きっと、心配しているだろう」

「…………いいん、ですか?」


 淡々と話す男の意図が、まるで掴めない。僕が外部に連絡を取る事を、認めると言うのか。そんな事をして、この男に何の得がある? むしろ、男にとっては危険しか無いはずだ。

 わからない、わからないけど……これはチャンスだ。母に電話するフリをして、どこかに通報を――。


「――――ひとつ、忠告しておこう」


 光の無い目をこちらに向けて、男はゾッとするほど平坦な声を発した。


「余計な事は言わない方が良い。『異世界人』がどうとか……そんな戯言を、誰が信じる? 君のような子供の言う事を、俺の言葉よりも信じるだろうか?」


 たしかに、僕は無力な子供でしかない。でも。いや、だからこそ。僕がまだ殺されていない今しか、まだ彼女の死体が溶けきっていない今しか、可能性はない。今、やるしか――。


「それに、」


 だが、そんな僕の僅かな希望も、続く男の言葉に呆気なく掻き消された。


「君だって、周りの人を変な事に巻き込みたくはない。そうだろ――――?」


「…………今、なんて」


 なぜ。なんで、この男は――を知っている? 名乗っていないはずだ、一度だって。この男が、僕の名前を知っているはずが……。


「ああ、そうだ。もうひとつ忠告しておこう」


 男は懐から見覚えのある手帳を取り出しながら、言った。

 見覚えがあるはずだ、あれは――僕の生徒手帳だ。いつの間に、取られた。まずい。あれには……あれには、名前も、校名も、写真も、電話番号も……も載っている。


「…………そん、な」


 見たのか、それを。よりにもよって、もっとも見られてはならない人間に――この男に、僕の家の住所を、知られたのか。最悪だ、僕のせいで、まずい、だって、だって家にはお母さんが、家にこの男が来たら……!


「落とし物には、気をつけた方がいい」


 ひくり、と。

 男の頬が、痙攣した気がした。

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