氷の街の王子さま
芦屋 道庵
氷の街の王子さま
ススキノ、午前一時。二月の札幌はマイナス六度まで冷えている。南四条沿いには数多くの飲食店が立ち並び、ネオンが煌めいて、まるで氷の城塞だ。粉雪なのか、水蒸気が凍っているのか、車のライトの中に、微小なきらめきが見える。表通りの歩道はロードヒーティングがあるが、路地に入ると、ガリガリに凍結している。思いがけないところに罠があるのは、まるで人生と同じだ。
仕事帰り、ユキはコンビニエンスストアに立ち寄った。店内では同じくナイトワーカーと思しき女の子が数人、買い物をしている。
部屋で飲む酒やつまみ、ヨーグルトなどを選び、最後にカップ麺の棚に向かう。ここは札幌、カップラーメンといえど、こだわりの品揃えだ。しかし、ユキの選択に迷いはない。
「赤いきつね」と「緑のたぬき」それぞれ二つずつ。
帰って来ないのは分かっている。でも二つ買わずにはいられない。
ケンとユキは高校時代の同級生。札幌でも有名な進学校で共に上位を争い、ルックス的にも目立つカップルだった。学校帰り、二人で北大構内のベンチに座り、参考書を読んだ。テスト勉強をしていても、二人だったら、いつまでも飽きることがなかった。自然公園のような水路があり、さわやかな風が吹くキャンパスは、どんなに立派な図書館よりも快適な空間だった。六月になると、ポプラ並木から綿毛が飛んで来る。お互いの髪に付いた綿毛を取り合って、お猿の毛づくろいだと笑った。それから、コンビニエンスストアに行って、カップ麺を買った。イートインでお湯を注ぎ、二人で食べた。
ケンもユキも札幌生まれだが、なぜかラーメンには手を伸ばさなかった。≪赤いきつね≫か≪緑のたぬき≫それが二人の定番だった。
二人の間には奇妙なルールがあって、必ず同じものを食べるのだった。そうしないと、なんとなく寂しい気がするのだ。私たち変わってるね、お馬鹿カップルだね、といつも笑った。
ほんとは≪赤いきつね≫が食べたいけど、ケンは≪緑のたぬき≫がいいのかな。そんなささやかな忖度が心理戦みたいで楽しかった。
北海道神宮の夏祭りの夜、ケンとユキはキスをして、進学の夢を語った。ケンはIT系、ユキは文学部。学部は違うけど、東京の同じ大学に行くことが目標だった。二人の成績なら、合格は確実。東京でいろんなところに行こうね、そう言って夢を膨らませた。
手稲山の頂上が白くなる頃だった。ユキの母が入院した。それまで元気にしていたのに、ある朝突然倒れた。救急車で病院に運ばれ検査してみると、悪性の腫瘍が見つかった。それもかなり進行した状態だった。
ユキが十歳の時、父親が急逝してからは、女手ひとつで育ててくれた母だった。闘病中の母を置いて、上京はできなかった。
「早く元気になってね」
強い治療の副作用で母はみるみるうちに痩せていった。口内炎ができて、食事もできない。そんな時でも娘のことを思い、済まないと涙ぐむ母を、ユキは励まし続けた。
進学のためケンが上京する日、ユキは新千歳空港で見送った。飛び立つ人、降り立った人、出会いと別れが交錯する季節だった。
「元気でね。東京は空気が悪そうだから、体に気をつけてね」
「ありがとう。待ってるから」
「うん。お母さんが元気になったら一年遅れて行くね」
「ユキ、あんまり無理するなよ」
「大丈夫だよ、全然」
口では強がってみせた。でも、搭乗口に消えていったケンの後ろ姿を見送って、何とも言えない寂しさを感じた。
置いて行かれた。
そうじゃないのは分かっている。しかし、悲しい予感を抑えることはできなかった。
東京に行ったケンからは
「桜が満開になったよ」
「友達とディズニーに行ったよ」
「渋谷で飲み会だったよ」
というような、写真付きのメールが届いた。
楽しそうだね、ケン。ぽつりとつぶやく。
「お母さん、円山公園の桜が満開だって。ジンギスカンの煙がすごいだろうね。来年は一緒に見に行こうね」
母が私の顔をじっと見る。
「ごめんね、ユキ」
この言葉を何度聞いただろう。
「私のことはいいから、受験勉強をしなさい。来年は必ず東京に行くんだよ」
「はいはい。そのためにも早く元気になってよ」
しかしユキは、主治医から聞いていた。母の腫瘍は、治療に反応しなくなった。つまり、死の宣告だった。もう辛い治療は止めて、ホスピスに入った方が良い、とも言われた。
悲しむユキを更なる衝撃が襲った。上京した友達が、偶然ケンに会ったという。渋谷で、可愛い女の子と一緒だったと。
「そうなんだ」
諦めが心に広がった。スマホからケンのデータを消去し、もちろん待ち受け画面も消した。
「逆に良かったのかも」
これで母の看病に専念できる。そう思い込もうとした。
ユキの成人式を見届け、安心したかのように母は亡くなった。生き甲斐をすべて喪ったユキを心配して、叔母の佐智子が声をかけてきた。
「辛いだろうけど、元気を出してね。良かったら、私と一緒に暮らさない?」
佐智子は母の妹で、雇われママをしている。ススキノでもトップクラスの高級クラブということだが、そんな店のママに相応しい美貌だった。
「小さくてもいいから仏壇を買って、母と過ごしたいので」
「そう……。ところで、これからどうする?進学は?」
「なんか、大学に行く元気も無くなっちゃいました」
佐智子は小さくため息をついた。
「ま、今は仕方ないわね。少し考える時間が必要ね」
「はい。とりあえず、アルバイトを探そうと思います」
ふと思いついたように佐智子は言った。
「それなら、社会勉強をしてみない?」
「社会勉強?」
「そう、うちの店でバイトしなさいよ。いろいろ経験できるよ。ただし接客はさせない。キッチンとフロアの担当でウエイトレスに近いイメージかな。給料は払うわよ」
生活費が必要なユキにとって、良い話だった。何より佐智子の眼が光っていれば、職場で嫌な思いをすることも少ないだろう。ユキは好意に甘えることにした。
しばらくして、ユキは佐智子の店で働くようになった。夢を売る世界だ。コンパニオンのお姉さんたちよりはかなり控えめだが、綺麗なドレスを貸してもらえた。
「そう、まずは身だしなみよ」
お姉さんたちは、みんな信じられないほど美しかった。
開店前には、ファッションやメイクのこと、立ち振る舞いのことなどをいろいろ教えてくれた。時には「赤いきつね」を食べながら。お姉さんたちにも、それぞれ事情はあるだろう。それでも自分を磨いて、前向きに生きる姿に元気がもらえた。
「一番覚えてもらいたいのは、男性を見る目」
その意味が、だんだん分かってきた。店にはいろいろな客が来たが、紳士面していても内面はどす黒かったり、コワモテでも実は優しかったり……。
「そうよ。男は外見で選んじゃダメ」
佐智子やお姉さんたちは、これをユキに教えたかったのだ。
そんな優しい人々に囲まれて、三年が過ぎた。
「ユキちゃん、ママが呼んでるよ」
佐智子はなぜか楽しそうな顔をしていた。
「ユキ、VIPルームに行ってくれる?大切なお客様からのご指名よ」
「え、接客はしないって……」
「お客様がどうしても、って。お願い、今夜だけ。若いけど社長さんで、すごいイケメンよ」
世話になっている叔母に逆らうこともできず、ユキはVIPルームへ向かった。
緊張しながら、ノックをした。
「失礼します」
ドアを開けて、お辞儀をする。
「ユキです。本日はありがとうございます」
「待ってたよ。いや、待たせた、かな」
え?顔を上げると、仕立ての良いスーツに身を包んだケンが笑っていた。
「ユキと連絡が取れなくなってから、人づてに叔母さんのことを知った。ユキに会わせてほしいと頼んだ。叔母さんは、あの子は、お母さんの看病で精いっぱいだと言った。だいたい、どうして連絡できなくなったのかと理由を聞かれた」
ユキは思わずケンの顔を見る。
「たぶん、誤解されたと思う、と答えた。あの日、友達と友達の彼女と三人で飲む約束だった。友達がちょっと遅れたんで、二人で待っていたんだ」
そんな、誤解だったなんて。確認もせずに思い込んでいたなんて。
「それから、叔母さんと連絡を取り合っていた。ユキが好きなのかと聞かれて、そうだ、と答えたら、証拠を見せろと言われた。辛い思いをしているあの子に、中途半端に近づいたら余計に傷つけるって。ユキには、私が一番いい男を選んでやるつもり。好きなら、それだけの男になって迎えに来い、と言われたんだ」
初めて聞く話だった。
「俺は在学中から仲間と起業を目指した。この前、ある大企業からシステムの構築とメンテナンスを受注できた。経営は軌道に乗った。だから、ユキを迎えに来た。そのために、俺は頑張ってきたんだ」
ドアが開いて、佐智子が入って来た。
「この子は、ずっとあなたのことが忘れられなかった。バージンのままで一生終わりそうで心配だったわよ。だから、王子さまが迎えに来るまで手元に置いて、レディとしての教育をしておいた。ユキ、良かったね」
「はい」
「じゃユキ、この店は今夜でクビよ。ケンさん、ユキのこと、よろしくお願いします」
「わかりました」
「ユキには、いまの俺、どう見える?」
「素敵よ。男性を見る目には自信があるの」
「それなら、一緒に東京に行くか?」
札幌が好きだけど。ユキが一瞬迷う。
「それとも、俺がこっちで仕事をしようか?月に何回か東京に行くけど、あとはテレワークで十分」
「そんなことできるの?」
「できるよ。今だって、ほとんど自宅で仕事してるんだ」
うれしい。ユキの心が弾んだ。
「やっぱり北大とか行ったら?フランス文学を研究したかったんだろ?」
「良く覚えてたね」
「忘れるわけないだろ。大学に一緒には行けなかったけど、夢は諦めないでほしい」
「うん、考えてみる」
「とりあえず俺が泊ってるホテルの部屋で話そうか」
「うん」
「今日は≪赤いきつね≫にする?≪緑のたぬき≫にする?」
「じゃ、≪緑のたぬき≫」
「昔のままだな、俺たち」
氷の街の王子さま 芦屋 道庵 @kirorokiroro
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