35 未開の未来


『……はい、谷口です』

「演永……いやハチです。ひさしぶり」

『チャットは毎日してたけど。声を聞くのは数日ぶりだね』

 電話越しに響く柔らかい声に、僕はスマホを持つ力が強くなった。


 自分の家に戻ってきてからは、毎日があっというまに過ぎた。父と一対一で話をしたり、A社の副社長に謝りにいったり(全く怒られなくて拍子抜けしたが、代わりに業務に就いた春斗の弟は相当優秀らしく、むしろ僕がさみしい気持ちになった)、大学院に入るのに必要な資料を取り寄せたり。

 慌ただしい日々の中でも、昴との約束を忘れたことはなかった。彼女の家に置きっぱなしの記録用ノート。記憶を探す過程で彼女から貰ったものは、ノートに記載の通りそっくりそのまま返さなくてはならない。食べ物に関しては二人でチラシを見て返金額を決めようと言っていたので、時間をとって彼女と会わなければならない。しかしお互いになかなか都合がつかず、ようやく電話をする時間だけはとれたという次第だ。すべきことはわかっているのだが、実際に彼女の声を聞くと、そんな事務的な話をするのはもったいないと思ってしまう。


『それで、今度の日曜日にうちに来るんだよね』

 僕の思惑は気にせず、目的に向かって話をサクサクと進めるのが昴だ。そんな要領の良さも惹かれた部分なので、肉声の余韻はほんの少しの間味わうに留めることにする。

「うん。自宅のこと、大体ひと段落ついたから。記憶が戻りしだいすぐに返す約束だったのに、遅くなっててごめん」

『いいよ。ハチの家が、そんなに大きいとおもってなかったし。場合によってはものすごく貧しくて、返すのに何年もかかるって言われる可能性もあったわけだし。むしろ早くてびっくりしてるよ』

「急いで、準備したほうが」

『うん?』

「なんでもない」

 昴に早く会えると思った、といいかけてやめる。どうも、直接顔を見ていないと、頭の中にある言葉を考え無しに口にしてしまいそうになる。今はまだ、それを言うのは早いと自分を戒めた。

『でも、ハチがうちの大学院に来るつもりだって聞いてもっとびっくりしたよ。うちにいるとき、そんなことひとことも言ってなかったから』

「うん。ちょっと考えてはいたんだ。でも自宅が近所だって確証もなかったし、通える家庭環境なのかもわからなかったから、安易に口には出せなかった」

『それもそうか』

「あのさ、昴」

『うん?』

 言葉に出せない想いはあれど、今確かめておきたいことはある。

「家でお世話になっていた時に借りたものを返し終わって、その後も。僕と、会ってくれますか?」

 口調が変わったことで、少し緊張しているのが伝わったのかもしれない。二、三拍、彼女の声が途切れた。父に意志を伝えた際とは違う意味で、いやあの時よりもっと返事を聞くのが怖くて、スマホを持たない方の手も強く握りしめてしまった。

『もちろん』

 だから、スピーカー越しにはっきりと肯定の声が響いたとき、反動で両手の力がなくなってしまった。がこん、と床に落ちたスマホが大きな音を立てる。

『ハチ? 大丈夫?』

「うん。ごめん、安心したら力が抜けた」

 慌てて拾い上げながらごまかすと、彼女が小さく息を吐く音が耳元に届いた。

『心配しなくても、これからもずっと、ハチとはかかわっていくような気がしてる。キャンパス一緒だから構内でも会うだろうし。ハチがちゃんと試験に受かれば、だけど』

「うっ、頑張ります」

 痛いところを突かれて、思わず居住まいを正す。彼女はいつだって、僕が欲しい言葉と、前に進むのに必要な応援の気持ちをくれる。

『うん。これからもよろしくね』

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 彼女に見えないことは分かっているが、僕は自然とお辞儀をしていた。


 僕たちの出会いは突拍子もなくて、いろんな過程をすっとばして同居してしまっていたけれど。面と向かった、真っ向勝負のおつきあい――もちろん、広い意味でだ――はこれから始まるのだ。彼女についてもっと知りたいことがたくさんある。僕が自分を取り戻した今は、自信を持って彼女の隣に立てるようになりたい。そのための努力は惜しまない。猫ではなく、きちんとした大人の男として。君に認めてもらえるその日まで。


 <完>

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