34 ハチの決断

 僕はここ1か月で一番、姿勢を伸ばして歩いている。

 思えば昴の家にお世話になっていた時は、今日ほどきっちりとした格好をすることも、ぴしっとした体勢でいることもなかった。猫でいる間は言わずもがな、人間でいるときも居候としての申し訳なさはあれど、肩ひじが張る、窮屈な感覚はもたずに過ごすことができた。

 ――改めて、昴の人たらしっぷりはすごいな――

 赤の他人を自宅に上げて、居心地の悪さを一切感じさせないのはある種の才能だろう。そんなことをつらつらと考えているうちに、目的の部屋の前についた。


 扉は、換気のために開け放たれている。我が家ながら、個人宅にあるものとは思えない観音開きの戸を見つめ、僕は二度三度息を吸って吐く動作を繰り返した。適度に通る声を出したいときは深呼吸より、普通の呼吸をして気持ちを落ち着かせるほうが効果的だというのは春斗のアドバイスだ。

 奥に人影があることを確認してから、口を動かす。

「……父さん。八広です。入ってもよいでしょうか」

 巨大な茶色の机――何かの木の一枚板だと、以前聞いた気がする――で書類に目を向けていた男は、顔をあげて僕と視線を合わせた。

「待っていたよ。入りなさい。席はそっちだ」

 父が左手で示した先には、応接コーナーがあった。書見台から見て正面、入口のすぐ左側にある2人がけのソファに浅く腰掛ける。

「飲み物をとって構わない。コーヒーでよければ、だが」

「わかりました。父さんもブラックでよいですか?」

「ああ」

 応接セットのコーヒーを飲む許可が出たので、僕はより一層背筋を伸ばす。ここの飲み物を親族が口にするのを許されるのは、重要な話をするときだけだ。完全にプライベートなとき――母が雑談に来たときなど――は、来客用のものに手を付けてはいけないといわれている。つまり、父にとって今から僕とする話は、かなり重要だということだ。


 僕の向かいに腰かけた父は、マグカップに注いだコーヒーを一口含んでから、音を立てずにローテーブルの上に置く。

「“見守り係”の杵束きねづかから聞いたが。おまえからわたしに話があるようだと。しかしいままでの顛末は、彼からすでに報告を受けている」

 先手を取られ、僕は開けかけた口を閉じる。父と話すときはいつもそうだ。何か言いたいことがあっても、先回りして主張を封じられてしまう。いつものくせでむっと黙りこくる僕をみて、正面の男は苦笑を漏らした。

「おまえの、考えていることがすぐ顔に出るくせは欠点でもあり美点でもある。活かし方を検討する必要がある個性だ。……八広、お前はこれからどうやって、生きていくつもりだ」

 不自然なくらい唐突に、本題に切り込んでくる。僕とあまり似ていない父は、じっと見つめても一切表情を動かさない。しかし、喜怒哀楽が薄いひとと短くない期間向き合って、目から伝わる感情はごまかせないのだと知った。以前であれば恐怖を感じていたであろう父の問いかけを受けても、彼が怒っているわけではないということはわかる。

 ただ、父は知りたかっただけなのだ。僕が、何を思って日々を生きているのかを。落ち着いて思考を巡らせて、ゆっくり頭の中を整理する。誤解なく伝わるよう、発する言葉を選ぶために。


「僕は、大学院に通いたいと思います」

 まっすぐ目を見つめ返して答えると、父の瞳がわずかに大きくなった。口を挟まないところから先を促されていると判断し、さらに思いを言葉に乗せる。

「家を出て、谷口 昴さんという大学生に会いました。彼女にはあらゆる面で、文字通り衣食住から助けてもらっていました」

「八広が世話になっていたという、女子大生か」

「はい。記憶が無く、また半日は猫になってしまう状態で、彼女なしには生活できなかったことは事実です。しかし、もし記憶があって、五体満足であったとしても、彼女には決してかないません。ものの考えにしても、記憶を取り戻すためにどう動くべきか、指示してくれたのは常に彼女でした。

 僕が何気なく過ごした一日でも、昴は日常に含まれるわずかな要素から、記憶をなくす前の僕につながる情報を一つずつ、拾い上げていくんです。当事者の僕より、ずっと適切なやり方を選びだしていました」

 何をするにしても――衝動的に家を出た日を除いて――昴の主導で生きる毎日だった。家主は彼女だからという意識で片付けそうになったこともあるが、そうではなかったのだと今はわかる。

「彼女にできることが、なぜ僕にはできないのか。最初は、記憶がないせいだと考えていました。しかし、昴の親族に会ったり、一緒に生活する日々を重ねるにつれて気づきました。彼女は、自分がしたいことがはっきりわかっている。さらに一度やりたい、やると決めたことには時間も、労力も惜しみません。やりたいことに向かって一所懸命に取り組むから、周囲のひともみんな協力的です。でも、僕にはその力がありません」

 相対する父は全く表情を変えないが、思い切って僕自身をさらす。

「僕は、物心ついたときから、現在に至るまで“自分がしたいこと”を見つけられていません。いえ、昴に会うまでは、見つけたいとすら思っていませんでした。父さんの会社の人たちや、周りの大人たちが求める生き方をするべきだと、考えていたので。就活も、会社を継ぎたくないという衝動から始めたので、就職以外の選択肢は眼中にありませんでした。だから、どこにも採用してもらえなかったのだと、いまはわかります」

 自分と昴を比べて、僕はなんて受動的な人間なのだろうと情けなくなる。僕自身がそう思うのだから、話を聞いている父はもっとあきれているだろう。とはいえまだ言いたいことは残っているので、彼が感情のままに口をはさんでくるタイプの人でなくてよかった。

「今、僕は“自分がしたいこと”を見出したいと、強く思います。そのために、大学院で勉強をしたいのです」

「大学院は、学びを深めるところだ。やりたいことを探す場所ではないと思うが」

 父の声は静かだが、釘をさす力は強い。しかし、その指摘は僕も想定済みだった。

「はい。やりたいことの方向性はあるのです。A社で働かせていただいた時に、経営分析資料の作成に携わることがありました。数値分析の業務は、もっと専門知識を持っていれば面白いのではないかと思うのです。昴が通っている大学には、分析手法の研究に特化した大学院があると聞きました。目的意識をもって学びなおし、自信をもって仕事ができるようになりたい、です。誰かの顔色をうかがうのではなく、僕自身がしたいと思い、納得して物事に取り組みたいと考えます」

「それが、今の八広の結論か」

「はい」

 我ながら、身勝手な主張だと思う。今更ながら、言いたいことを口に出しすぎたのではないかと後悔の念が沸きあがってきた。歯に衣着せない昴の物言いが移ってきたのかもしれない。しかし、臆病な心は僕のままで、父のリアクションを待つのが怖い。


「八広、おまえは人に流されすぎる。今の話も、生活を共にしていた谷口さんに流されただけではないか、と受けとれる」

「……」

「だがそれを加味しても、今おまえ自身が考えて口にした言葉は、本音だと判断できる」

 落とされてから上げられて、次に飛んでくる言葉が予想できない。身構えていると、父の方がふっと肩から力を抜いた。

「わたしが、ものごとを熟考する環境を充分に与えてこなかったという反省はある。妙な魔女とやらの介入はあったが、結果として八広が能動的に考える意識をもってくれたのは、嬉しく思う。一度学生を辞めた後の勉強は大変だが、頑張ってみなさい」

「ありがとうございます!」

「ただし」

 ソファに額がつくくらい深く頭を下げた僕に、静かな声が降り注ぐ。

「A社の業務を無断で放棄し、職務を離れた責任はとってもらう。いくら心が弱る出来事があったとしても、誰にも告げずに職場を去ることは社会人として許容できない。A社の副社長とも相談したが、1年間、下請けのX社で総務補佐をしてもらう。大学院の授業は優先していいが、仕事の手は抜くな」

 顔をあげると、先ほどより少し厳しい雰囲気をまとった、仕事モードの父がいた。以前は彼の威圧感にのまれてしまっていただろうが、今は言葉に含まれた意味も考えるゆとりがある。要は左遷される、ということだろう。それだけのことをしてしまった自覚はあるし、学業を優先していいというのはむしろ優しいとさえ思う。

「わかりました。A社の件は、申し訳ありませんでした」

「謝罪はわたしではなく、副社長にしてきなさい。急遽ではあったが杵束の弟が代役に入っているから、杵束経由でコンタクトが取れるだろう」

「承知しました。すぐに連絡します」

「そうするといい」

「はい。お時間をいただき、ありがとうございました」

 父はマグカップを持って席を立つ。話はこれで終わり、の合図だ。父の部屋に洗い場は無いから、食器は給湯室まで自分で持っていく必要がある。僕も再び頭を下げてから、飲んでいたカップをもちソファから離れる。


「わたしはてっきり、谷口さんとの交際を認めてほしいという話になるかと思っていたが」

 ぽつりとつぶやいた父の声に、部屋を出ようとしていた僕は飛び上がった。

「なんで、昴のこと知って、いや何でそんなことを!」

 舌が回らない僕を見やり、主因である彼はわずかに首をかしげた。

「短くない時間、同居していたのだろう。杵束からは、関係も良好そうだったと聞いている。ならば、恋愛感情が芽生えてもおかしくはないだろう」

 生活状況が、父に筒抜けすぎる。あとで春斗に釘を刺しておこうと思いつつ、改めて正面に身体を向けた。

「昴に、好意を抱いていることは事実です」

 僕が真剣な話をしようとしていることを察してくれたのか、父も真っすぐ僕を見た。

「でも、だからこそ、僕自身が地に足を付けた生活をしたいと強く思ったのです。僕が日々の暮らしぶりに胸を張れるようでないと、彼女の隣には立てません」

「その答え、先ほどの“お願い”よりよほど説得力があるな」

 父はめずらしく、はっきりと口角を上げて笑みを漏らした。

「頑張れよ」

 ぽん、と僕の肩を叩いた彼は、扉の外にいた秘書にマグカップを渡して、書見台へと戻っていった。取り残された僕も、秘書にカップを取られてしばしその場で呆然と立ち尽くした。

 冗談を言われた、のかもしれない。あるいは同性のよしみからくる励まし、だろうか。いずれにせよ、初めて父が身近な存在に思えた。

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