33 あとしまつ
「これからの話、ですか」
マグカップをテーブルに置いて、
「はい。
春斗の言葉に身を固くした僕を見て、彼は小さく首を横に振る。
「それ、私が聞いても大丈夫なんですか?」
と昴。
「ええ、もちろん。むしろ今日に至るまで八広さまが無事に日々を過ごされていたのは、谷口さんのおかげです。貴女は聞く資格をお持ちです。それに私は八広さまの見守り係ですが、近しい関係だったとは言い難い。今の八広さまとお話するには、貴女にいていただいたほうがご安心いただけるかと存じます」
穏やかでありながら、かなりはっきりとものをいう春斗に僕は先ほどと違う意味でたじろいだ。
「安心、はするけど。そもそも、ここ昴の家だし。追い出してまで僕たちの家の話をするのはおかしいだろう」
「ええ、それもそうですね。例えばファミリーレストランに私たちだけで移動したとしても、八広さまは落ち着かれないでしょうし」
付け加えられた例示に、つばをのみこむ。実際のところ、目の前にいる春斗をどこまで信用していいのか――僕の味方なのか否か――の判断はつきかねていた。少なくとも父から遣わされた人であるならば、無断で家を出て連絡を寄こさず放浪していた僕を良くは思っていないだろう。そんな人間と二人きりになるのは、いくら身内だといっても――いや、身内だからこそ――気が引けた。彼からどんな言葉が発せられるのか想像するのもきつくて、ズボンのポケットの中でたい焼きのスクイーズを握りしめてしまう。
中々口を開く様子のない春斗に耐えかねて、僕から問いかけることにした。
「ええっと、春斗。父は、怒っている、よね」
口をついて出てきたのは、最も気になっていたことだ。一番確かめるのが怖いことでもあったが、僕の家では父の考えが絶対だ。始めに確認しておかないと、他の話にも広がっていかないとおもう。とはいえ真正面から堂々と答えを聞く勇気は持てず、思わず目線を下に向けてしまう。
「いいえ。お怒りではありません」
だから正面から発せられた意外な言葉に、勢いよく顔を上げてしまう。
「嘘! なん、で」
前のめりになった僕に少し身体を引きながら、向かいに座る春斗はわずかに口角をあげた。
「私は、八広さまが“魔女の店”に行かれた後、引き続き……今までと同じように、見守り係を続けるよう命じられました。それが何よりの証拠です」
意味が分からず、首を傾げる。昴の方に目線を向けるが、彼女も要領を得ていないようでじっと春斗の顔を見ていた。僕たちから強い視線を向けられても、彼の穏やかな表情は変わらない。
「八広さまは、私の業務について詳しくご存じではありませんよね。谷口さんにとっても、身近な職務ではないでしょう」
春斗はわずかに身体の向きを変えて、昴と僕の両方に顔を向けた。
「私は、八広さまがお一人で行動されるようになったころから、見守り係を拝命しております。谷口さんは、見守り係はどのような役職だと想像されますか?」
「うーん……今までの動きを見る感じだと、ハチが変なことをしないか遠くから監視する係?」
身も蓋もない言い方に、僕は思わず苦笑いが漏れる。しかし彼は真面目な表情で頷いた。
「ええ、あながち間違いではありません。八広さまが気にならないくらいの距離感で様子を確かめ、異常があった場合は然るべき担当に伝える。それが私の仕事です。私自身は、八広さまの行動に対し何ら制約も、誘導もいたしません。あくまで見守るだけの役割です」
「っていうことは、SPみたいに危険な時にボディガードをしたりとかはしないんだ」
「はい。私は八広さまに危害を及ぼしかねない人物の情報収集や、観察のみを行います。その情報を受領し、動くのが身辺警護を拝命した者たちです」
「やっぱり、ボディガードもいるんだ……」
「八広さま専属、というわけではありませんが」
春斗は小さく笑うが、昴の表情は硬いままだ。目元のわずかな変化を見る限り呆れている、というのが近いだろう。あの家にずっといたら何の疑問もなく受け入れていたであろう“当たり前”の日常が、昴にとって……いや、大多数の人にとっては当たり前ではないのだと、今はわかる。
「いずれにせよ、私は八広さまの行動に判断を下す立場ではありません。しかし、貴方が“魔女の店”に赴かれた際は対応に悩みました。状況からして猫に変えられ、路上に放たれたことは推測できましたが、私は店の中まで入りませんでしたから。猫化が事実であると、確信をもつことができませんでした」
「普通、そうでしょうね。まさか人が猫になっているとは考えないですし」
実感のこもった昴の言葉に、春斗も深く頷く。
「おっしゃる通りです。私は、報告を後回しにするという選択をとりました。まず八広さまと思しき猫の足跡を辿り、ご本人だと確証が持てる動きをされた際に、本家に伝えるべきだと判断したのです」
「じゃあ、僕が猫でいる間も、春斗はずっと見ていたのか?」
僕の問いかけにも、彼は首肯する。
「ええ。先ほど申し上げた通り、少し離れたところから見守っておりましたから。鳩に攻撃されていた時と、谷口さんの後をついていったときは少々、焦りましたが。それでもまだ、貴方だという確信は持てずにおりました」
「もしかして、ハチのことに気づいたのって、人の姿で玄関に出てきたから?」
先回りして昴が確認する。
「正確には、ベランダの窓越しに八広さまの人影を視認したときです」
「それ、普通にのぞきじゃない?」
「八広さまの御父上にも同様に指摘されました。申し訳ございません」
春斗は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げる。
「まぁ、うちのアパートのセキュリティが低いのはわかってたし、カーテン閉めてなかった私にも責任はある、か。杵束さんは仕事をしていただけなんですから、そんなに頭を下げなくていいですよ」
「いいえ。八広さまを発見したことを御父上に伝えたところ、第一声でおっしゃられたのは谷口さんの生活を邪魔していないか、ということでした。猫変化の部分は不確定な要素も多かったのですが、私が見て分かった範囲はすべて報告しております。漏れなく聞いてくださったのちに、お父上は一言だけおっしゃいました。“そのまま、見守りを続けなさい”と」
「それ、さっきも言っていたけど、どういう意味なんだ?」
今までの顛末を丁寧に説明してくれているのはわかるが、“見守り続ける”ことと現状を父が許容していることの関係性が見えない。もどかしくて、思わず口をはさんでしまった。
「この先は、私の推測が入ることをお許しください。……御父上が八広さまをすぐに連れ戻そうとされたならば、谷口さんの家に誰か人を送ったことでしょう。あるいは、もう少し貴女の周囲の方々に近づいて、情報を得ようと指示されたはずです。しかし私が今まで通り“見守りを続ける”というのは、現状維持、ということです」
「それ、僕が見捨てられているってことじゃ」
「いいえ」
自嘲気味に放った言葉は、強めに否定された。二人分の視線が痛い。
「本当に関心が無いのであれば、私も見守り係の任から解かれていたでしょう。御父上は、八広さまのことを常に気遣われていました。表にはあまり出されなかったと思いますが。もちろん、進路のことで悩まれていることにも気づいていました」
突然僕の個人的なことに触れられ、指に力が入る。さきほどから手に触れていたスクイーズを、ポケットの中で強く握りしめた。
「きっと、演永のお家から離れることが、「八広さまがご自身の将来をお決めになる上で必要なこと」だと判断されたのではないのでしょうか」
静かに告げた春斗の目は、昴と同じ雰囲気を帯びていた。ただ僕のために、僕の考えを尊重してくれるという意思が伝わってくる。
「八広さま。谷口さんと生活を共にして、今後どうされたいかはお考えになりましたか?」
「僕は――」
悩みつつも、しかし彼女と日々を過ごすうちに芽生えた思いを口にすると、昴はわずかに目を見開き、春斗は表情を緩めて頷いた。
「御父上は、認めてくださると思いますよ」
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