32 魔法の終わり
目が覚めた時、一瞬ここがどこなのかわからなかった。
白い天井に、少し硬いベッド。かけられている布団から手を抜いたとき、隣の部屋で動く人影が見えた。影が振り向いた瞬間、僕は現在に至るまでの状況をはっきりと思いだした。
「昴!」
「おはよう」
勢いよく身体を起こして彼女に呼びかけると、人影……昴はまっすぐこちらにやってきた。
「身体は大丈夫?
「うん。どこまで現実なのかわからなくて、ちょっと混乱してるけど。でも、昴のことも、猫になる前のことも僕のことなんだってわかってきた」
まだ、寝ている間に見ていた映像が脳裏を駆けめぐっている。起きる直前にリアルな夢を見た時、目覚めた後も夢と現実がごちゃまぜになる感覚がある。今まさに、その状態だった。
「記憶、戻ったんだね」
「うん。たぶん全部」
「そっか」
彼女は頷くと、大きく伸びをした。
「お腹は空いてる? 変な時間だけど今朝食べそびれたし、何か胃に入れたほうがいいよ。すぐに持ってくるね」
「あ、ありがとう。そこまでお腹は空いてない、かな」
「了解」
彼女はロールパンを一つ、お皿に乗せて戻ってきた。パンにはキャベツの葉っぱを筆頭に、いろいろなものが挟まっている。
「即興・さんまのかば焼き入りロールパン。ほんとはおかゆとかのほうが身体に優しいのかもしれないけど。すぐに食べられた方がいいかなと思って」
「病人じゃないし、胃の調子は悪くないから大丈夫だよ」
「よかった」
昴がお皿を持ってくれているので、僕はパンを両手でとった。
「おいしい。こういうのもいいね。……でも、パンとさんまのかば焼きって珍しい組み合わせだね」
なんとなく、かば焼きと言えばごはんのイメージがある。しげしげ眺めていると彼女は小さく笑う。
「まあロールパンにありがちなのはツナとかトマトとかだけど。今トマトは切らしてて。それにほら、前スーパーに行った時、ツナ缶を見てちょっと嫌そうな顔してたから。ツナはやめといた。意外といけるでしょ」
「……確かに」
再び猫時代の攻防を思い出して、おもわずうめく。
「猫だった時、昴に会う直前にツナ缶のそばで鳩に襲われたから。見るたびに思いだして。味自体は嫌いじゃないんだけど」
自らツナ缶に近づいたことは、人間としてのプライドにかけて言えなかった。彼女は僕の葛藤に気づいた様子はなく、ベッドの脇に置かれた背もたれの無い丸い椅子に腰かける。
僕が最後の一口を咀嚼していると、彼女はおもむろに声をあげた。
「寝起きで申し訳ないけど、改めて。お帰り、ハチ。……いや、
「ハチでいいよ。昴にはそう呼ばれた方がしっくりくる」
「そりゃあ、ずっとハチって呼んでたからね」
二人で小さく笑い合いながらも、僕は姿勢を正した。昴もお皿を脇に置いて、正面から目を合わせる。
「さっき、ハチがどういう生活をしてきた人なのかは、杵束さん……黒ジャケットの人に聞いた。ちょっと信じられなくて、外でハチの本名を口に出しちゃったけど。ごめん」
座ったまま頭を下げられて、僕は慌てて手を横に振った。
「いやいや。今まで怪しんでいた赤の他人に、いきなり僕の話を聞かされても、疑心暗鬼になるのはあたりまえだよ。
「ハチ、杵束さんのこと名前で呼んでたの?」
「うん。あの人、兄弟だから」
僕は彼女の疑問に答えながら、ハチとして出会った二人の黒い男のことを思い返した。いなくなった僕の代わりに副社長の補佐をしていたのが弟の
「杵束さんの名前でぴんとくるってことは、やっぱりあの人の話は正しいんだね」
昴は僕に聞こえるか聞こえないかくらいの小声でいうと、真剣な表情で僕の顔を見据えた。
「でも、私はハチの口から聞きたい。いままでどうやって生きてきたのか、なんで猫になったのか。特に、記憶をなくしたいと思ったわけは、ハチ本人に聞くしかないから」
「わかった。僕も、昴には直接話したい」
春斗が何をどれくらい説明したのかはわからないが、昴には僕のことを、他人のフィルターを通さずに知ってほしかった。自分でお金をやりくりして、勉強もしっかりして、家事までこなす彼女からすれば、僕のいままでの生活はみっともなく見えると思う。でも、だからこそありのままの話を聞いてもらうことで、僕が深く感謝していることを、きちんと伝えたい。
思い出す限りのことを口にする間、昴は時折頷きながら黙って聞いてくれた。黒い服の男たちの正体……春斗と秋斗が兄弟であることを教えたときにはわずかに目を見開いていた――春斗はそこまで話していなかったらしい――が、魔女のくだりでは大きなリアクションは無かった。
「自分の苗字から距離を置きたいと強く願っていたから。記憶を失うくらい強い魔法を魔女にかけられたってことか」
僕が昴と会う直前のことまで話し終えると、彼女はぽつりとつぶやく。
「記憶が戻って、ハチはよかった?」
シンプルな問いかけに、少し考える。
「正直なところ、まだ、どうすればいいかはわかってない」
記憶が戻ったばかりだが、昴に経緯を話すことで多少思考は整理された。それでも、今から自宅に帰らなければならないことを考えると胸がずしん、と重くなる。
「帰らなくちゃいけない、とは思うし、帰った後父になんて言えばいいのか、わからずにいる。だから、家に戻るのは気が進まない」
「そっか」
昴は短くいうと、椅子から立ち上がる。
「じゃあ、まず関係者と話をしようか。杵束さん、近くにいるみたいだから」
「え、呼べるの」
「さっき連絡先をもらった」
隣の部屋からスマホをとってきた昴は、僕が何かを言う前に耳に当てる。
「はい、谷口です。……はい、家に来ていただいて大丈夫です。……はい、お願いします」
短い通話を終えると、彼女はこちらに顔を向けた。
「杵束さん、すぐ来るって」
覚悟は決まっていないが、時間は待ってくれない。僕は黙って頷いた。
・・・
「外で立ちっぱなしだったんですよね。うち、狭いですけどあがっていかれますか。お茶くらいは出せますよ」
「いや、そこまでは」
玄関口に控える春斗を部屋にあげようとする昴に、僕はとっさに待ったをかけた。
「記憶、戻ったんだよね。杵束さんが不審者じゃないのはわかったから、別にいいんじゃないの」
「いえ、八広さまがおっしゃりたいのはそういう意味ではないと思います」
扉の外から目線で同意を求められて、僕は首を縦に振る。
「昴にとって、見知らぬ男であることには変わりないよ。そんなにほいほい、異性を家に上げないほうがいいと思うよ」
「それ、ハチに言われても説得力ないなぁ」
昴にいたずらっぽく返されて、言葉に詰まる。
「ごめんごめん。でも、ハチを大切にしている人だっていうのは、さっきの話との整合性と、今まで待っていてくれたことでもわかったから。ハチは私にとって見知らぬ男じゃないし。だからいいんだよ」
どうぞ、と扉を大きく開けて身体を引く昴の横を、春斗が綺麗にお辞儀をしてからすり抜けてくる。家主がそこまで言うなら僕に口出しはできないし、何より“見知らぬ男じゃない”と言ってもらえたことに気を取られていて、春斗の入室などという些事に意識を向けることができなかった。
僕の正体を聞いてもなお、見知った男だと思っていてくれるのだ。昴は。こそばゆさにその場で軽くジャンプしてから、二人の後に続いてリビングに入った。
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