31 記憶――きっかけ・下

 魔女はカウンターの端にかけられていた赤い布を引っ張った。中にあるのは食器かと思いきや、水晶玉だ。バスケットボールくらいの大きさの透明な球が、細い金色の脚で支えられている。脚の下をくぐらせるように、透き通るガラス板が置かれていた。

「この国で生きていたら、言霊ことだまっていう概念を一度くらいは聞いたことがあるだろう」

 布を畳みながら、魔女が話を振ってくる。

「“悪いことを言ったら自分に返ってくる”とかの考え方ですか?」

「ああそうさ。願いを言葉にし続けたら、叶いやすくなるともいうね。そういう言霊の力を強く引き出すのが、ウチの店さ」

 いきなり本題に入られて、僕は面食らった。

「言霊を、引き出す?」

「言霊の力、さ。言葉っていうのは不思議なものでね。後ろ向きな言葉を口にすれば、ただ思っているだけの時よりも暗い気分になる。逆ももちろんあるね。音で聞かなくても、文字として見ているだけで影響がある。別にウチじゃなくても、それぐらいのことは誰だってできる」

「はい。なんとなく想像できます」


 あたりさわりのない相槌を打ちながら、僕はA社の人たちのことを思い出していた。前向きな言動が多い副社長は、はたから見ても楽しく仕事をしていた。自己暗示の一種かもしれないが、確かに言霊の効果はあったのだと思う。

「自分が使う言葉は、ある程度自分自身でコントロールができる。平常心でいれば、気持ちが落っこちない言い回しを選んで話したり、書いたりできるはずさ。けどね。自分ひとりの力じゃあどうにもできない、それでいて自分から切り離すこともできない言葉がある。何かわかるかい」

「自分じゃどうにもならない……本気で怒った時とっさにでる怒声とか、ですか」

「人によっちゃあ、それもあり得るけどね。もっと密接に、どんな性格の人間でも関係なく付随する言葉は、氏名さ。自分の苗字と名前は、簡単になくしてしまうことはできないだろう?」

「……確かに、結婚したとしても、下の名前は変わりませんね」

「へえ。男で結婚して苗字が変わる発想がすぐ出てくるってのは、珍しい」

「いえ……父が、婿入りしているので」

「なるほどね。母方のほうが有力な家だったってわけか」

 口を閉ざした僕に、深く突っ込むべきではないと思ったのかもしれない。魔女は氏名が持つ力へと、話題を戻した。

「平安時代の物語を読むと、偉い人が仕事を成し遂げた後は大体出家する。出家っていうのは、自分の名前を捨てて世俗とのかかわりを断ち切ることだ。ウチは宗教のことはよくわからないけど、まぁ名前には、個人と社会とを結びつける力もあるってことだ。平安時代の人々は、それをよくわかっていたんだろうよ。とはいえ、今の時代に出家をして、世俗から離れるっていう選択をとれる人間はそういない。辛くて自暴自棄になるくらいなら、出家してみるのもありだと思うんだけどね」


 ぽかんとしている僕に、魔女は咳払いをして見せた。

「また、少し話が逸れたね。要するに、人の氏名がその人自身に与える力は、相当大きい。時には、人生を決めてしまうくらいにね。そこまでいかなくても、自分の氏名について色々と考えている人は、よくも悪くも執着してるってことになる。執着心っていうのはかなり強い力さ。だからウチは、氏名がもつ言霊の力が欲しい」

「氏名が、欲しい……?」

「ああ。もちろん、ただ貰うだけじゃ対等な契約にならないから、ウチは名が持つ力の一部を使って、氏名を提供してくれる客の望みを叶える。そうしたら、お互いに欲しいものが手に入るだろう?」

「望みって、どんなものでもいいんですか?」

 氏名を渡すことと、願いを叶えてもらうことが結びつかなくて、僕は首を傾げた。

「ウチの店にやってくる客は、自分の氏名に少なからず思うところがある。変わった名前のせいでいじめられた経験があったりね。だから、一度は願うのさ。名に縛られない、別の存在になってみたいってね。ウチの店に辿り着いたってことは、あんたもそうなんじゃないのか」

 僕は頭の中で、自分の氏名――演永 八広――を思い浮かべる。名前でいじめられたことはないが、苗字は僕にとって枷だった。珍しい字面ゆえ、業界関係者の人が見ればすぐに、父の会社の縁者だとわかってしまう。名前を知ったうえで僕に話しかけてくる大人たちのパターンはいつも同じだ。僕が口を開く前に――もっとひどいときは、直接顔を合わせる前に――彼らは“演永社長の息子(あるいは孫)”という扱いで接してくる。会社とは関係が薄い場所でも、社長令息という色眼鏡を取り払うことはできなかった。


「結婚して苗字を変えてしまう踏ん切りは付かないですし、相手もいません。でも、一時的に、苗字を忘れて、いや僕自身が何者であるのかを忘れて生きてみたいとは思います」

 気づいた時には、そう口にしていた。これまではっきりと考えたことはなかったが、言葉にして初めて、今のが本心であると自覚した。

 父の会社を継ぎたいとは思わない。であるならば、会社と直接結びつくこの苗字にこだわる必要はない。しかし今すぐえいやっと改名したいと願うほど、会社も自分の苗字も憎んでいるわけではなかった。

 魔女のもとで、苗字を無かったことにして生きる時間を持てるならば。僕は、家のことや僕自身が今後どうしたいのかを客観的に考えることができるのかもしれない。口に出したことで、ますますその思いが強くなった。これも魔女の言う、“言霊の力”というやつなのかもしれない。


「氏名を失うことで、一時的に記憶喪失になりたいってことだね。とはいえ、今までの話から察するに、あんたの家はそれなりに名が通ってるんだろう。ただ記憶をなくすだけじゃ、周りの人とかかわってすぐに思い出しそうだ。ウチは氏名の力を使うからね。あんた自身が、自分の名前を思い出したら効果は切れる」

 魔女はそういって、水晶玉の下におかれたガラス板を引出し、僕の前に置いた。細い金色の鎖で、玉と板はつながっている。

「板に、指で自分の名前を書きな。書いた文字がこっちの球までのぼってきたら、ウチは言霊の力を扱える。あんたの願いを叶えよう」

「僕は、何になるんですか」

「それは、なってからのお楽しみさ。どうせ今している会話も、記憶がなくなれば忘れてしまうからね」

 具体的なことは何も教えてもらえなくて、不安はあるがここまで来たら進んでみたいという気持ちが上回った。僕は右手の人差し指で、自分の名前を一文字ずつ書いた。書くごとに、漢字が赤く光り水晶玉のほうへ飛んでいく。少し崩れた「演・永・八・広」の字が、透明な球の中をくるくる回る。

「じゃあ、自分の名前を読んでくれ」

演永のぶなが 八広やひろです」

「上等だ」

 魔女が満足そうに頷くのと同時に、ランダムに跳ねていた文字列が縦に並ぶ。ちょうど縦書きしたような配置になったところで、文字全体が白く輝いた。眩しさに思わず目を細めてしまったが、なおも光の方を覗き見ると、苗字の一部分である、「寅」が赤色で残っているようにみえた。

「トラ、は危険だし街中だと生活しにくいからね。トラ猫くらいがちょうどいいだろう。たくましく生きな!」

 魔女が叫んだのを最後に、僕の記憶は途切れた。

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