30 記憶――きっかけ・上

「八広さんの配属の件、ですか」

 エレベーターを降りた僕は、話し声に足を止めた。廊下のつきあたりで、人事部長が電話をかけている。狭い事務所では会話が筒抜けになるので、人気ひとけのない廊下の隅でやりとりをする。それ自体はよくあることだが、部長の口から僕の名前が出るのは初めてだ。僕は柱の陰に身を隠し、社用携帯をいじるふりをしながら聞き耳を立てた。

「いえ、他の新人と同じ扱いをするわけには。営業職として現場に行かせて、何かあったら困ります」

「ええ。……将来的にお父様の手伝いをされることになるでしょうから、副社長の下で修練を積まれるのが最善でしょう」

 僕は聞いていられなくなって、乗ってきたばかりのエレベーターに飛び乗った。


 確かに、父は特別扱いをしないといったはずだ。しかし、A社の人事部はそう思っていなかったらしい。副社長付きにしたのは単なる人手不足が理由ではない。明らかに、僕を後継者として想定したがゆえの動きではないか。

 父の会社を継ぐのが嫌で就活をして、それ自体は失敗したものの関係性が薄いA社で働くことで英才教育のルートからは外れたつもりでいた。だがいくら取引額が小さいといっても、関係会社にいる限り“親会社の社長令息・次期社長”というレールからは逃れることができないのだと、はっきり悟ってしまう。

 元をたどれば、僕が就活をするわけが明確でなかったから、父の会社に戻る羽目になってしまった。もし、理由を考える十分な時間があったら。私見を適切に伝える術を学ぶ機会があったなら。すくなくとも自分の選択を後悔することはなかっただろう。

 ――いや、今からでも遅くない――

 そう考えようとして、かぶりを振った。いちどA社に入社してしまった以上、更なる転職はA社の外聞に傷がつく。そもそも、職を変えたい理由……父の会社を継ぎたくないわけを明らかにできなければ、一昨年の就活の二の舞だ。考える時間のあった大学時代でさえ、論理を充分に組み立てることができていない。考えることに脳のリソースが割く余裕がないいま、転職がうまくいくとは思えなかった。

 ――少しの間だけでもいい。今とは全く違う環境に身を置いて、自分が本当に何をしたいのかだけを考えられる時間と脳の余裕が欲しい――

 いまの会社、住環境にいる限り、無理な欲求だとわかっている。自らの力で環境を変えたくとも、僕がもつ力はあまりにも弱い。それでも、願わずにはいられなかった。

 ――このまま、なし崩し的に父の会社を継ぐ人生だけは、嫌だ――


 何も考えずに飛び出てしまったが、今から業務に戻る気にはなれない。幸か不幸か、今日は副社長が出張中のため僕が事務所に居なくても咎める人はいない。僕はそのまま、会社とも最寄り駅とも逆方向の、行ったことのない道を歩き始めた。

 計画性も目的もない。ただ、あてもなく街をさまよう。


 ・・・


 どれくらい歩いただろうか。僕は、突然妙な感覚におそわれた。「どこか」に向かわなればならないという強い思い。「どこか」が何処で、何がある場所なのかはまったくわからない。しかし、先ほどまで何も考えずに踏み出していた足は、迷いなく動き続ける。僕の意思とは別の何かによって、操られているかのようだ。謎の力に逆らいたいほど行きたい場所もないし、なによりその動きは会社から離れる方向だったので、なすがままに任せる。


 細い路地の角に建つ、白い建物の外側についた階段。謎の誘導がなければ、私有地だと思いまず足を踏み入れなかっただろう。金属の段差を3階までのぼったところで、ようやく動きが止まった。

 3Fの踊り場の奥には、上半分だけ曇りガラスになった扉がある。どんな店なのかは一切わからないが、足元から見える丸椅子の配置からしてカウンター式の飲食店のようで、何より「OPEN」と書かれた看板がぶら下がっていたので、僕は意を決して扉を押し開けた。

 カランコロンと、木琴のかわいらしい音色が狭い店内に響く。おしゃれな扉やドアチャイムとは裏腹に、中は薄暗く、壁一面に洋酒が並ぶバーだった。少なくとも、こんな真昼間から営業している雰囲気ではない。


「この時間にお客かい? ああ、んかね」

 突然、低い声が聞こえ大きく肩をこわばらせる。カウンターの内側、入口から最も遠いところに、複雑な色――単色ではない、あらゆる色を混ぜて編み込んだような色味だ――のローブを全身に被った人が立っていた。

「座りな。話したいことがあるんだろう」

 怪しい服装の人物はカウンター席に並ぶ真ん中の椅子を指さした。僕は目をそらすことも、逃げ出すこともできずにそろそろとその前まで来た。厚い木の机越しに見上げても、目深にかぶったローブのせいで相手の顔はよくわからない。しかし、恰好だけ見れば、明らかに

「魔女……?」

 相手がくすりと笑う気配がした。

「まぁ、それでいいさ。ウチのことは大体の人間がそう呼ぶ。第一声でウチの性別を間違えなかったところはポイントが高いね」

 言われてみれば、低い声と僕より高い身長は、男性だと思われる事も多いのかもしれない。しかし、なぜか僕は向かい合ったときに女性ではないかと感じた。山勘のおかげで第一印象はよくなったらしい。魔女がほんの少し、顔を上げた。

「あんた、辛気臭い顔してるねぇ。話をする前に一杯飲みな。口が柔らかくなきゃ、聞きたい話も聞けないだろう」

「僕は、お酒強くないので、遠慮しておきます」

 見るからにおしゃれなバーといういで立ちの店内を見回し、念のためそう答える。お酒が弱いというのは嘘だ。ザルといえるほど強くはないが、飲みすぎて体調がいつもと違うと感じたこともない。しかし初対面の相手には飲めないと思わせておいた方が、何かと得だった。

「なんだい。酒で酔えない口か。じゃあジンジャーエールでも飲んでおきな。ショウガの辛さが口を滑らかにするさ。あとはつまみだね。本物のアルコールじゃなくても、それっぽい飲み物とつまみ、飲むための空間さえあれば酔いが回るさ」

 魔女の手には、いつの間にか青い皿があった。湯気が立つそれを目の前に差し出される。

「今日のつまみにはワインが合いそうだが、まあいいだろう。オイルサーディンのピザだ。さっさと食べて思っていることを言いな」

 皿の上には、一切れのピザが載っていた。オリーブの実とオイルサーディン、バジルが散らされているだけのシンプルなピザだ。紅茶色の鮮やかなテーブルに、よく映える。そのすぐ横に、どん、と薄茶色の炭酸が置かれる。

「ほら、ジンジャーエールだ。どっちも前払いだよ。あんたの話を聞く対価さ。あんた金を持ってそうだけど、ウチの店で金はいらないから」

「僕の話を聞いてもらって、食べ物までいただけるんですか」

「ああ。あんたの話がウチにとってのメリットになるからね。代わりに、包み隠さず話してくれよ。正直であればあるほど、“契約”の力が強くなる」

「はぁ」

 ずいぶん客側にとって都合のいい話で、胡散臭いと思ってしまう。だって初対面の人が何を言うかなんて、相手にはわからない。目の前に立つ魔女は明らかに、ボランティアや純粋な善意で動く人ではなさそうだ。そんな人が安くはない食事を提供して、話をしろと迫ってくる。僕の粗を探して、家や会社を強請る新手の詐欺を疑ってしまう。

「何だ、話す気はないのかい? いまの時間にウチの店にたどり着けるのは、誰かに打ち明けたい思いがある人間、ウチが望みをかなえてやれそうな人間だけなんだけどねぇ」

 食事に手を付けようとしない僕をみて、魔女はため息をついた。

「まぁ、見知らぬ人間を警戒するのは、まっとうな感情さ。“契約”には相互の信用が必要だしね。はじめにウチから話をしようか」

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