28 真実の姿
男の顔を目の当たりにして、僕は必死に記憶を巡らせた。
役所の食堂から見かけて、車に乗っていった黒ジャケットの男とは明らかに別人だ。しかし、今目の前にいる男には見覚えがある。黒い短髪に、全身黒のスーツ。真夏だと重いいで立ちだが、着こなしがきちんとしているせいか清潔感がある。背丈は平均よりやや高いくらいだろうが、顔立ちにはあまり特徴がない。少なくとも、同じ学校にいたとか、同じ職場にいたとかのレベルだったら覚えていなさそうな雰囲気である。ということはそれ以上の距離感で、
「部屋から、出たのか?」
男の呟きが聞こえ、ぐるぐると動かしていた思考が中断させられる。僕と面識があるか否かより、今は目の前の男が、昴のストーカーの可能性があることのほうが問題だ。本当に後者なら、この場に彼女が来るのはまずい。
『フーッ(おまえ、何でこんな所にいるんだ)』
いらだちが、僕の毛を逆立たせた。誰何する言葉は、低い唸り声にしかならない。しかし男は、小さな気配からこちらの存在に気づいたようだ。
「トラ猫、ですか。縄張りに入ってしまいましたかね。あるいは繁殖期の邪魔をしてしまいましたか」
男は静かにつぶやくと、周囲に目線を走らせる。なおも身体を膨らませる僕に、わずかながら困惑の表情を浮かべた。
「近くに、他の猫はいないようですが。どうすれば、許してもらえるのでしょう」
『シャーッ(昴の周りから離れろ)』
伝わるはずがないことは分かっているが、言わずにはいられなかった。身じろぎ一つしない男と、その少し上から睨みつける僕は互いに視線を固定し動かない。
「ハチ、どうしたの、この人は」
いつ終わるかも知れない硬直が解けたのは、すぐ傍から昴の声がしたからだ。
『にゃあ(昴、危ない)』
僕はとっさに塀から昴にむかって飛び込んだ。左肩と左腕で受け止めてくれた彼女は、僕と対峙していた男へと顔を向け、目をしばたたかせた。
「あなたは、魔女のところまでの案内をした人」
一方、男のほうも目を見開いていた。ここまで大きなリアクションをとられると、地味な顔立ちでも印象に残る。しかし彼は昴ではなく、僕の方を見ていた。
「ハチ、と呼ばれましたね。ということはやはり、貴方がやひ、」
途中まで言いかけてさっと口に手を当てる。めざとい昴は聞き逃さなかった。
「もしかして、ハチの知り合いですか。いま、本名を言いかけてやめましたよね。今この場で名前を呼ぶとまずいって、気づいたから」
ストレートな指摘に対し男は口をつぐんでいたが、僕たちにじっと見つめられ、観念したように首を横に振った。
「真正面から問われて、ごまかすことはできませんね。特に谷口さん、
「私に? ハチにじゃなくて?」
「ええ」
男は彼女に頷きかけると、視線だけを僕へと向けた。
「私はや……ハチさまの見守り係、とでも申しましょうか。つかず離れずの位置にいて、生命を脅かされそうな事態に遭わないよう陰からお守りする者です」
「やっぱり、ハチって良いとこのお坊ちゃんなの」
「大富豪、というわけではありませんが。世間から見れば、その表現でも差し支えないかと思います」
僕は、昴たちの会話を聞いて再び頭をフル回転させ始めた。見守り係の存在と、“いいとこのお坊ちゃん”というワード。ふたつの情報によって、記憶の重しに手をかけられた、気がした。
「これ以上、今お話しするのは危険です。私も名乗る必要がありますし、途中でや……ハチさまの記憶が戻ってしまう可能性がある。できれば家の中で、話の続きをしたいところですが」
『シャーッ(得体のしれないおまえを、昴の家にはあげられない)』
「ええ。貴方は反対されますよね。ですので、谷口さんには夜分に申し訳ありませんが、この場で簡潔にお伝えさせていただきたいと思います。そして、重ねて謝罪させていただきますが、ハチさまはその間、声が聞こえないところまで距離をとっていただけますでしょうか」
「つまり、私だけがハチの本名を先に聞くってこと?」
昴の問いかけに、男は即座に頷く。
「はい。ハチさまが記憶と人の姿を取り戻されるべきか否かは、谷口さんに一任します。ハチさまも、それでよろしいですか」
『フゥーッ(おまえと昴を、二人きりにはできない)』
「ハチ、まだ警戒してるみたいだね。正直なところ、現時点ではあなたは私の家のまわりをうろちょろしていた不審者だから、それも一理あると思うけど」
僕を横目で見ながら淡々と述べる昴に、男は長く息を吐いた。
「私に言われたくはないでしょうが……このアパートの周りは、見知らぬ人間が身を隠せる死角が多い。貴女には、できれば引越しをすることをお勧めします」
「わかってる。だからマンパワーに頼って暮らしてる」
「それは、あの目ざとい隣人の方のことでしょうか……私も何度か見つかりそうになりました。……貴女の考えもまた、理にかなっているかもしれませんね。失礼、脱線してしまいました」
なおも全身で苛立ちを示している僕の方に、男は向き直った。
「では、ハチさまは私たちの姿が見え、かつ声は聞こえない場所に待機していてください。それでも不安でしょうから、ブザーを渡しておきます。猫の足でも鳴らすことはできるでしょう。少しでもおかしいと感じたら、ためらわず押してください」
男は、ポケットから小さな防犯ブザーを取り出した。なんでそこまで用意周到なのかは謎だが、一応受け取っておく。
なおも信頼しきれず毛が逆立っている僕の背中を、昴の手がゆっくりと撫でた。
「ハチ、たぶんだけど、この人のことも見覚えがあるんだよね? だから、さっき私が来たとき盛大に威嚇してたっていう理解でいい?」
それだけが理由ではないが、間違ってもいない。僕が頷くと、彼女も頷き返してくれる。
「だったら、この人がハチの過去を知っているっていうのも、嘘じゃないと思う。さっきから本名らしき名前を言いかけてるし。ハチにこんなに警戒されてるのに、ちょっと辛そうだけど不快そうではないし。私は話を聞くべきだと思う」
昴の手が、僕の頭の上にぽん、と置かれた。
「だから、ハチは待ってて。大丈夫。何かあったら一緒に逃げよう。例のSOSもあるし」
彼女がちらりと自分のポケットに目をやり、思い出した。渉さんにワンタップでSOSを送れるということを。とはいえ、とっさの出来事に対し、彼に頼るのはむずかしいだろう。僕は昴の顔をじっと見上げ、いつもと変わらない彼女の雰囲気に安心してから男のほうに視線を移した。
「や……ハチさま。谷口さんには真実のみをお話しすることを、約束いたします」
僕のなけなしの記憶と、目の前にある真剣な表情をしている彼の顔を必死に照合させる。少なくとも、マイナスの感情は出てこない。心が固まった。
昴の肩を右手で軽く押す。意図を察してくれた彼女は、ゆっくりかがんで左肩を傾けた。僕は彼女の身体を傷つけないよう、慎重に地面へと飛び降りる。
「ありがとう。信じてくれて。でも万が一のときは、よろしくね」
『にゃあ(もちろん)』
昴としっかり頷きあって、僕はアパートに向かって駆けだした。
・・・
予測に違わず、アパートの横に生えている木の上からは昴たちの様子がよく見えた。それでいて、男のリクエスト通り話の内容までは聞きとれない。二人とも時間と場所に配慮して、あまり大きな声は出していないのだろう。おまけに二人とも、感情が顔に現れないタイプのようだ。元々昴はそうだが男のほうも穏やかな雰囲気が一切崩れない。
男が本当に僕の“見守り係”なのか、なぜ職質されても文句は言えなさそうな場所から昴のアパートを伺っていたのか。疑問ばかりが湧いて出て、記憶を辿るには至らない。それに、男の話が真実ならば、僕はまもなく、自分の本名を聞くことができる。ならば今ぐるぐると考え事をするよりは、目の前で彼が変な行動をとらないか監視しているほうが有益だ。
二人が口を閉じた。昴がこちらに向かって手を振っている。僕は木から飛び降り、道路を蹴った。走りながら前を向くと、彼女は大きく口をうごかした。
や・ひ・ろ
彼女の口の動きがそう見えた瞬間、僕の身体の内側に強烈な熱が生まれた。全身が痛い。何より一番、頭が痛い。いままで遮断されていた情報が奔流となって流れ込んでくる感覚。
――今ここで、人に戻るのはまずい――
そう思っても身体の変化と記憶の濁流を止めるすべは無くて、僕の視界は暗転した。
「
最後に目に入ったのは、僕を呼ぶ男と一緒に駆けてくる昴の姿だった。
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