27 追跡・下

 猫の姿のまま屋外で単独行動をするのは、昴に出会った日以来だ。しかし今日は後ろから彼女がついてきてくれる。こんなに心強いことはない。

 とはいえ、安心感と同時に責任もおぼえる。今度こそ確実ににおいの元、ハンカチの持ち主であろう黒い男を見つけなければならない。

 家の中でかいだにおいは、すぐそばからしているような気がした。まずアパートの裏側に回ろうとして、垣根に身体を突っ込んだ途端強烈なにおいが鼻をつく。慌てて身を引かざるをえない。

 ――土と、草と、花の匂いがこもってる。垣根って、こんなに空気がこもるんだ――

 野良猫は普通に垣根の間を通り抜けているイメージがあるが、彼らにとっては慣れたにおいなのだろうか。新人猫の僕にはハードルが高かったので、ショートカットは諦めて人間用の道を駆けていくことにした。

 ――そもそも、僕が追いかけているのは人間なんだから、普通に歩道を進んでも見つけられるだろう。歩く人よりは足速いだろうし――

 目線が低いし、走り方も違うので断定はできないが、なんとなく足が速くなったような気がする。夜目が利く、というやつだろうか。20:00過ぎの住宅街でもどこに何があるのかがよくわかる。車や他の人がいないか注意しながら、目的地に向かって真っすぐに駆ける。


 アパートの裏側、ベランダから2区画ほど離れた角に、人影があった。においの方向からして、彼が発生源に違いない。僕の正体がばれることはないだろうが、昴が来るまで接触は控えた方がいいと考え、周囲を見渡す。男がいるところまで続くブロック塀が、すぐ傍に立ちはだかっていた。塀の手前には、ごみ集積所と思しきコの字型の囲み。ちょうど、ブロック塀の半分くらいの高さだ。さらに、まるで「足場にしてください」といわんばかりの花壇がその脇に置かれている。

 ――これ、登れるだろうか――

 さきほど猫としての自分の運動神経を信頼しないことに決めたばかりだ。いまの身長より何倍も高い塀にのぼるのは気が引ける。しかし足元で丸くなっているよりは、人の目線より上の角度から様子をうかがっているほうがばれにくいはずだ。僕は意を決して、花壇に足をかける。

 花壇からごみ集積所の囲みにあがることはそんなに難しくなかった。人間でいうと、胸の高さくらいの段差をよじ登る感覚だ。問題はこの次。ジャンプしてようやく手が届くくらいの高さにあるブロック塀をにらみつける。集積所の仕切りは幅がなく、助走をつけることもできない。しばらく目標地点を見定めていたが、ひと呼吸おいてから思い切り後ろ足二本で地面を蹴った。


『ギャッ(痛っ)!』

 なんとかブロック塀のてっぺんに両手をかけることには成功したが、反動で腹をしたたかに打ち付けてしまう。人とも猫とも思えない変な声が出た。男に存在を気づかれたかもしれないが、それを確かめる余裕はない。

 どうにか両腕に力を込めて、身体を上へと押しあげる。上半身が塀より高い位置にあがり、そのままバランスを崩し倒れこむように前へと重心を落とした。

『フゥ、フゥ』

 息が上がっているときの声は猫も人も似たようなものなのだな、と思いつつその場でしばらく呼吸を整える。さきほど壁に跳ね返されたお腹で体を支えているから、じんわりと痛みがある。しかし、厚い体毛のおかげか、ケガをしているわけではなさそうだ。

 ――それでいうと、鳩に引っ掛かれてケガしたの、人間だったらもっと深手を負っていたかもしれない――

 そもそも、人間の姿でツナ缶に近づいたところで、攻撃されたかどうかは怪しいが。そんなところに思考を巡らせられるくらいには心身が回復してきたので、両手と両足にバランスよく力をかけて、慎重に身体を起こす。

 塀の上は中央がやや出っ張っていて、歩道と家屋側それぞれに緩やかな傾斜がある三角形だ。表面はざらざらしているから滑ることは無いだろうが、平面に比べて歩きにくいことはたしかだ。態勢を立て直し、一歩ずつ足場を確かめながら歩みを進める。


 幸いなことに、男は僕のほうを見ていなかった。スマホを持って立ちながら、目線は昴のアパートのほうに向いている。

 ――この男まさか、昴のストーカー、とかじゃないよな――

 ショッピングモールに行ったとき、彼女は「誰かに尾けられている気がする」と言っていた。そう考えると行く先々で黒い男を見かけることにも符合する。だとしたら、なおのこと正体を明らかにしなければならない。

 なおも近づき、顔が見えるところまで到達して気が付いた。

 ――この人、ハンカチを落とした男とは、別人だ――

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