26 追跡・上

「ハチ、私がわかる?」

 かがんで顔を近づける昴に、僕は思いきり首を上に伸ばして頷く。

「やっぱりハチは、名前で呼ぶと人の意識を保てるのかな。いま、ハチはじぶんが人間だっていう意識ある?」

 もう一度、首を縦に振る。

「よかった。意思疎通はとれそうだね」

 ハンカチを取りに向かった彼女を、床に敷かれたバスタオルに座って見送った。


 家に戻ってからも頬の火照りはなかなかおさまらなくて、猫でいるときに定位置となっているバスタオルの脇と洗面所を何往復もしてしまった。かなりの頻度で顔を洗う僕は我ながらかなり怪しい奴だったが、昴もいつもと少しテンションが違う。声をかけてくることもなく、挙動不審な僕のほうを見ずに、もくもくと夕食兼明日の朝食の準備をしていた。

 帰宅時間が遅かったので、夕食ができる前に僕は猫になってしまった。それすらも彼女はすぐに気づかず、鳴いて呼びかけたところでようやく振り返ってくれる。


「とりあえず、これをもってきた」

 目前に、ハンカチ入りのビニール袋が差し出される。彼女は入り口が僕の方を向くようにしてから、輪ゴムを外してゆっくりと広げた。

 袋のなかに、鼻をさしこむ。いきなり強い香りが頭に突き抜けて、反射的に顔をそむける。ひとりでばたばたしているのをみて、昴は急いで袋を後ろに引っ張り遠ざけてくれた。

「ハチ、慌てなくて大丈夫だよ。においは多少飛ぶかもしれないけど、逃げはしない。今のハチは嗅覚が敏感になっているだろうから、人間の感覚で近寄るときついのかもよ」

 それは先に言ってほしかったと思いつつ、少しへっぴり腰になりながら再度ビニール袋に近づく。そもそも猫になってから10回以上経っているのだから、それくらい自分で覚えておくべきなのかもしれないが。未だに、猫の姿でのふるまいは慣れない。

 袋の入り口が鼻に触れるか触れないかのところで、歩みを止める。他人が使った布には色々なにおいが混ざり合って、決していいものではない。半歩、あとずさり内訳を分析するように努める。と、一つだけ明らかに異質な香りが鼻腔に届いた。

 ――人工的な、つんとする強烈なにおいだ。ハッカ? いや、ショウガ?――

 鼻のとおりが良くなりそうな爽やかな強い香りが、ひときわ僕の意識を刺激する。鼻孔を抜ける際のスーッとする感じはハッカとかミントとかの系統を想起させるが、のど元まで来たときの風味はショウガのようだった。


「ハチ、何かわかった?」

 じっと動きを止めた僕を見て何かしらの発見があったことを察してくれたのか、昴が上から声をかけてくる。しかし、問題は複雑なにおいのことを猫の姿でどう説明すればよいのか、だ。とりあえず頷きを返してから、伝える方法について思考をめぐらせる。


 その時だった。ビニール袋の中にあるハンカチとは明らかに違う方向から、今かいだのと同じ匂いがしたのは。

 はっとしてにおいがやってきた先を見上げる。冷房代がもったいないからと、日没後には換気のために開けているベランダの窓。そこから、風に乗って独特なにおいが入ってきている。ハッカとショウガを組み合わせたようなもの。それでいて、香水か、消臭剤のような雑味のない人工的なにおい。こんなにおいが外からする可能性はひとつ。

 ハンカチの持ち主が、アパートのすぐ近くにいる。


『にゃあ(今、外に行けば見つかるかもしれない)』

 僕は窓に向かって駆けだした。しかしそのまま飛び出す勇気はなくて、網戸の前で立ち止まり振り返る。

「ハチ?」

 昴は突然の僕の動きに驚いたのか、意図を探るようにじっと目を合わせた。僕も、振り向いた体勢のまま固まる。先ほどの比ではなく、状況を説明するのが難しい。とにかく外に出た方がいいことを伝えるために、前足を思い切り伸ばし、網戸を開ける動作を少し大げさにしてみせた。

 ガッ、ガッ

『にゃあ(扉の先に、持ち主がいるかも)』

 何度かサッシに手をかけてから、もう一度昴のほうに顔を向ける。彼女はなおも僕の様子をじっと観察していたが、ほどなくして

「ちょっと待って」

 とその場を離れる。何かガサガサと探る音がしてから、あっという間に戻ってきた彼女の手には、見覚えのある丸い金属が握られていた。

「人になる時に手首が締まったら嫌だから、あんまりやりたくなかったけど。これつけて。行きたい場所があるんでしょ。私もハチの動きを見て、後ろからついていく」

 昴が持ってきたのは、魔女と対峙した際に持参していた位置情報発信のタグだった。彼女はしゃがみこんで、僕の左手にそっと触れる。

「ハチの、ここにつけたいんだけど。ちょっとじっとしていてもらえる?」

 身体ごと昴に向き直ると、彼女は薄いガーゼのハンカチに金属を入れて、くるくると巻いた。細い帯状になったそれを僕の左手首に通して、蝶結びにする。

「猫にとっては重いかな。ハチ、歩ける?」

 四つ足で立ち上がり、二、三歩進んでみる。左足に多少の違和感はあるし、蝶結びが引っ掛からないか心配だが、歩けないほどではない。人間でいうと、買い物袋を肩に担いでいるくらいの負荷だ。昴に向かって頷いて見せると、彼女も僕から少し離れて立ち上がる。

「よし。そしたら行こうか。私は後から追いかける。ハチも、玄関からのほうが良ければすぐに開けるよ」

 そういわれて、猫の動きにいささか自信が無いことをいまさら思い出した。普通の猫ならばベランダから手すりに飛び移り、木を伝って下に降りるといった芸当ができるかもしれない。しかしそれを今こなす勇気はもてない。すたすたと玄関のほうへ向かおうとすると、頭上から小さな笑い声が聞こえた。

「しゃべってなくても、ちょっとふてくされてるのがわかる。そりゃハチは人間だから。玄関から出たいよね」

 図星すぎて、わざとらしく顔を横にそむけてしまう。笑い声が大きくなった気がしたが、気にしないふりをした。

「ごめんごめん。外に出たら、家の周りではハチの名前は呼ばないようにするけど、意識は持っていたほうがいいかもね。“自分はハチだ”って」

 彼女の言葉に内心で頷く。本名がどうであれ、いま昴と一緒にいる猫兼人間はハチに違いない。香りの正体を突き止めるまで、自我を保ってみせる。

 玄関口につくのとほぼ同時に、扉が30cmほど開かれた。一度ちらりと昴の方を振り返り、目を合わせる。彼女がいつもの落ち着いた表情で頷いてくれるのを確認してから、僕は外へと飛び出した。

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