25 昴

 玄関に姿を見せたのは、くだんの二人だけではなかった。

 昴が会計を済ませている間に先に外へ出た僕は、男女合わせて4人で車に乗ろうとする一団を目にした。男二人なら思い切って声をかけるつもりだったが、談笑する彼らに出鼻をくじかれてしまう。

 さきほどの男たちより若い――僕と同じくらいの歳かもしれない――青年と、彼より年上の雰囲気がある女性が笑顔で言葉を交わしている。彼らの前にたち、黒い男が後ろのドアへと導く。

 このタイミングを逃したら、ハイヤーが出発してしまう。男女3名を後方座席へ導いたのち、助手席のドアを開けようとする男に走って近づいた。


「あの!」

 黒い男は振り返り、わずかに首を傾ける。ジャケットの黒さに反し、色白で細い目は、キツネを連想させた。やはり、顔立ちに見覚えはない。

「どちらさまでいらっしゃいますか?」

 彼の問いかけはかなり穏当でありふれていると思うが、僕はとっさに答えが出てこなかった。松葉さんに名前を聞かれた時と同じだ。赤の他人、それも身なりのきちんとした社会人にハチと名乗るのは、すこしためらわれる。

「人違いのようですね」

 数秒の沈黙ののちに、車内に向かってそう声をかけると僕に会釈をして乗り込んでいく。助手席のドアがバタンと閉まると間を置かずに、黒塗りのハイヤーは車道へと滑り出した。

「ハチ!」

 車両を追って駆けだした僕の後ろで、昴の声が響く。信号の少ない道路をスムーズに飛ばしていく車を、人力で追跡するのは無理がある。あっというまに車体が小さくなり、僕は顔の向きを黒光りする影に固定しつつも、走るスピードを緩めざるを得なかった。


「ハチ、待って」

 はるか先の方で車が右折したのを確認してから、僕は振り返った。深く息を吸って、吐いている後ろから昴がふらつきながらやってくる。

「足速いね、ハチ……でもさすがに、走って追いかけるのは無茶だよ」

「そうだね。いま、諦めた」

「まだ、諦めるのは早いかもよ」

 口では諦めたといいつつ、目線を車が去った道から外せない僕に、彼女は新しい情報をもたらした。

「いま、2つのことがわかった。1つ目。助手席に座っていた黒い男の人、わたしを魔女のところに連れて行ったのとは別人だった。顔が違う。だから、ハチとは別のところで接点があったのかも」

「他人の空似、か、親族かってところかな」

「うん。背格好はそっくりだから、何かしら関係はあるかも。あともうひとつ」

 昴は、右手を僕に差し出してくる。そこで初めて、彼女が手に布らしきものを持っているのがわかった。

「これ、車の下に落ちてた。たぶん、黒い男の人のハンカチじゃないかな」

 紺と細い赤色が組み合わさった、ギンガムチェックの薄い布をじっと見つめる。

「拾得物として届けてもいいけど。その前にハチ、猫になった時ににおいとか確かめられないかな。猫は人間より鼻が利くっていうし」

「でも、猫でいる間の記憶が、僕は」

 意識が無い状態で情報伝達ができるのかと懸念を示そうとする僕を彼女は手で制して、無理やりハンカチを押し付けてくる。

「大丈夫。ハチの記憶に残らなくても、多少の意思伝達はできるから。私が聞いて、メモしておけばいい。それに、名前を呼んだら意識が残る説、試してみないとね」

 先ほどは僕を説得するために持ち出した仮説だと思っていたが、彼女は案外本気だったらしい。いや、記憶を取り戻すことに関して、彼女はいつだって何でも試そうとしていた。名前を呼ぶ件もそのうちの一つなのだろう。

 僕は受け取ったハンカチをつまんでから、昴に返す。

「だったら、僕のにおいがあんまり移らない方がいいんじゃない?鞄に入れておいてもらったほうがよさそう」

「それもそうだね」

 昴は自分のショルダーバッグをぐるりと見回してから、脇ポケットにハンカチを挟んだ。

「多少においが飛ぶかもしれないけど。さっさと帰ってビニール袋とかにしまっておこう」

「鑑識みたいだね。警察の証拠分析する」

「確かに。でも実際、やろうとしてることって鑑識と同じでしょ?」

「うん、一緒だ。少ない手がかりから人を探そうとしてる」

 家に帰ったら鑑識ごっこだ、と笑って僕たちは大通りをゆっくり歩く。


「一日でこんなに走ったの、久しぶり」

「僕も。というか、昴の家にお邪魔してから、初めて走ったかもしれない。この程度ですぐばてると思わなかった」

 はなから車に追いつけるとは考えていなかったが、それにしてもほんの数百メートルを小走りしたくらいで息が上がった自分に対して、少なからずショックを受けていた。

「私も高校時代より、体力落ちた気がする。運動系のサークルには入ってないし」

「そういえば、昴って何のサークルに入ってるの?」

 今まで怪しいサークル「変幻自在」に潜入する話をしたくらいで、彼女が元々大学でどんな生活をしているのかという話をあまり聞いてこなかったと気づく。僕と昴が顔を合わせるのはほとんど家の中で、勉強しているのはよく目にしているが遊びや、趣味については彼女の様子からは伺えなかった。

「天体サークル。団体自体があってないようなものだし、私自身も幽霊部員だけど」

「天体サークル? 天文部みたいな?」

 理科実験室に天体望遠鏡をおいて、星空を観察するイメージが思い浮かんだ。

「うーん。実際の活動は大学の長期休暇のときに、3泊4日くらいの合宿に行って星空観察をするのがメイン。それ以外は各自星の勉強をしたり、神話の本を読んだりとかしてる」

「神話?」

「星座の名前って、ギリシャ神話由来のものが多いから。って言っても星の写真を撮るのが好きな人とか、単純に空気の良いところで寝泊まりしたいだけの人とかもいるから、けっこうみんな自由に動くんだけどね。普段もサークル棟に部屋はあるけど、全員で集まることはほとんどないし」

「それで、“あってないようなもの”ってことか」

「うん」

 確かに、中高の部活動や運動系の熱心なサークルに比べると、ずいぶんまったりとしている。しかし季節ごとに空気がきれいな場所へ出かけるのは楽しそうだ。

「昴は、星を見たくて入ったの?」

「うん」

 彼女にしてはオーバーリアクションで、大きく頷いた。

「私の名前、昴ってじいちゃんが好きな曲からつけたんだ。曲の中で歌われてるのが、星の昴。正確にいえばプレアデス星団っていうんだけどね」

 記録ノートの冒頭に、名前の由来が書かれていたことを思い出す。簡潔なメモだったが、浅からぬ思い入れがあるようだ。

「プレアデス星団は、おうし座の一部分にある星の集まりで、日本だと冬に見られるんだ。毎年、2月か3月辺りにばあちゃんの家に泊まりに行って、古い望遠鏡で探しだすのが楽しみのひとつで。私の名前も星の名前も、人間が付けたものではあるけど。小さいころからなんとなく“私の星”っていう意識があって。宇宙の昴が元気なら、私も元気で頑張れるって思ってた」

 彼女の語りは止まらない。歩くペースはゆっくりだが、口のうごきは滑らかだ。

「天体観測をするサークルに入ったら、いい望遠鏡で探せるから、さ。星団に関係する神話を同期に教えてもらったりもして、それも面白いんだ。バイトしたり家のことをしたりするのに時間を使いたいから、日常的な活動が無いのも私にはあってる」


「その、星の昴ってさ。見えるのは真夜中なのかな」

 僕の問いかけに、彼女は少し考えてから頷く。

「そうだね。季節と見る場所にもよるけど、見るときはだいたい夜更かししてる」

「そしたら」

 たい焼きのスクイーズを、浴衣の中で握りしめる。言ってもいいのか、でも言わずにはいられないという思いが喉元を開かせた。

「僕の記憶が戻って、夜も人の姿でいられるようになったら。いつか一緒に見たい」

 口を閉じると、いまさらながら外気がじりじりと身体を灼くのに気づき、身を任せる。顔の火照りは太陽の熱によるものだと、自分に言い聞かせながら。なおも顔が赤くなっている自覚はあり、昴の顔が見られない。そんな僕をみて彼女はどう思っただろうか。

「うん。星の昴に会いに行こう」

 はっきりとした声に、思わず顔を上げる。彼女はこちらを見ていなかったが、僕の視線に気づいたのか振り返り、頷いてくれる。

「大丈夫だよ。少しずつ、ハチの記憶は戻ってきてる。前に進んでいける」

 ほら、帰ろうと手を差し出され、反射的に受け止めた。暖かい人肌を感じてますます顔に熱が集まるのを、家に着くまでずっとごまかすことになった。

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