24 点から線へ
「久しぶりに走った……」
肩で息をしながら、昴が音のない声を発した。
僕たちにとって幸いなことに、追っていた車両は大した距離を進まずに停車した。男性二人が乗り込んだ地点から数ブロック先の、大通り沿いに建つ横に長いビル。その脇にはもやしの種のようにちょこんと付いている狭い駐車場。駐車技術が求められそうなそこに、黒塗りの高級車が滑らかに入庫するのをかろうじて見つけることができた。彼らが車を降り、建物の中に入っていくのを僕たちは反対側の歩道から観察する。
そこで初めて、発車時にはわからなかった、恰幅の良い男性の顔を正面から見た。
「あっ」
僕の脳裏に、エレベーターに乗り込むスーツ姿の男性が浮かんだ。僕がワイシャツとわかる厚手の袖から手を出して「開く」ボタンを押していると、彼が後から入ってくる。
「僕、あの人に会ったことがある」
「知り合い?」
まだ呼吸が整わないらしく、昴の確認は短い。
「そこまでは、わからないな。でも、エレベーターに乗る映像が思い浮かんだ。僕がドアを開けて、あの人が乗ってくる」
「てことは、親戚か同じ会社の人か、少なくともハチは知っている人かもね。ある程度近い関係じゃないと、エレベーターに同乗するくらいじゃ印象に残らないだろうし」
「うん。確かに」
「どうする?」
なおも、彼女は短く問いかける。
僕たちは、食堂から見かけた黒スーツの男は運転手か秘書で、目的地まで着いたら別行動をするのではないかと考えていた。一人になった瞬間に、声をかけるつもりだったのだ。しかし彼は予想に反し、役職者と思しき男性と行動を共にしてしまっている。
「二人が戻るのを待つしかない、かな。今、目の前にある手がかりを逃したくはない」
だから僕は、これしかない、という提案をした。
「わかった。ハチが知り合いかもしれないってことなら、関係性を突き詰めながら時間をつぶそうか。ちょうどいいところにファミレスあるし」
昴が指さした先には、有名なファミレスチェーンの看板があった。
・・・
「やっぱり、あの車はハイヤーだね」
男性たちが入っていたビルがよく見える、窓際の席に陣取った僕たちは互いにスマホを取り出した。いつの間にかナンバープレートを写真におさめていた昴は、車両ナンバーで検索をかけたらしい。
「ナンバープレートだけで、そこまでわかるの?」
「所有している会社までは特定できないけど。数字の前についているひらがなで、家庭用か会社用かは区別できるみたい」
彼女は人差し指を素早く動かして、撮影した画像と検索結果画面を交互に表示させる。確かに、ズームで映されたひらがなは「事業用車両」を意味していた。
「それに、なんとなくこの車、見た目も高級そうだし。ハチ、車種わかる?」
今度は、もうすこし引きの写真を差し出される。いつの間にこんなに枚数を撮ったのだと思いつつ、覗き込む。しかし全体像を見ても、黒塗りのぴかぴかな車だ、という感想しか湧いてこない。
「何の車かは、わからないな。特に思い出すこともなさそう」
「じゃあ少なくとも、ハチは車への関心は薄めなのかな」
昴は浅く頷いて、鞄からノートを抜き取った。「記録」と書かれたB5のそれを開き、ボールペンを走らせる。
「あ、いつも書いてるやつだね」
「一応、持ってきた。ハチの家出の原因を探るのに、使えるかもしれないと思って」
「ごめん」
彼女の口調が心なしか暗くなった気がして、僕は慌てて謝る。
「いいよ。こんな状況になったから、むしろ持ってきてよかった」
机に並ぶ罫線を、二人で覗き込む。見開きのページには、昴の手によって新たな項目が追加されていた。
<ハチと関係がありそうな人たち>
魔女
・ハチの記憶喪失、猫化の張本人(たぶん)
→ハチが自ら魔女に頼んだ?
・人の名前を使って、氏名の文字に因んだ姿に変えられる
→ハチの本名は「八時」と「猫」に関係あり?
黒い男
・真夏でも黒いジャケット、スーツ姿の男性
・大学から、魔女のところまでの案内役
→魔女と知り合い?
大きい男性
・スーツ着用(ジャケットは着ていない)
・ハイヤーに乗る。役職者?
・ハチは見覚えあり(EVで同乗 同じ会社? 親族?)
さらに昴は魔女から黒い男に矢印を引き、“手伝い? 関係者?”と記す。そして黒い男と大きい男性も線で繋ぎ、“上司と部下?”と書いた。
「現状は、だいたいこんな感じかな。文字で見て思い出すこととか、付け足すこととかってある?」
僕はしばらくメモを眺めて、首をひねる。
「黒い男が、魔女とも大きい男性とも繋がっているから重要な気がするけど。僕はこの人だけ、全然記憶にない。さっき顔もちょっと見えたし、魔女のところに行ったときに声も聞いたけど何も思わなかった」
「よっぽど思い出したくないことがあるか、そもそも接点が無いか、印象に残ってないか。そしたら、覚えている人のほうを考えた方がよさそうだね」
「うん」
彼女の提案に同意しつつも、僕の目線は黒い男を中心に上下運動を繰り返す。そのうちに、不自然な点が浮かび上がってきた。
「昴が魔女のところへ向かうときに会った黒いスーツの人と、車に乗っていた黒い男って、本当に同一人物かな?」
「どういうこと?」
違和感の正体は、彼の出没場所だ。彼は魔女に会いにいく昴の前に夜現れて、今度は日中、役所にいた僕たちの視界に入る場所にいた。後者はまだわかる。昼休憩をとって、午後から男性と合流した可能性がある。しかし前者は、普通の社会人の行動としては考えにくい。副業で魔女を手伝っているのかもしれないが、あの魔女は報酬にお金を求めない。副業先としてまず選ばれない働き口だろう。
そもそも、どこでつながったのかが謎だ。昴は大学の怪しいサークルから突き止めたが、会社員が容易に発見できる存在ではない気がする。要は、“普通の社会人”っぽい今日の彼の行動と、“普通じゃない”魔女絡みの行動が同一人物のものと思えないのだ。
そういったことをつっかえつっかえ、説明すると彼女は首を傾げた。
「背格好と髪型はおんなじだし、真夏にジャケットを着こんでる大人ってあんまりいないだろうから、断定してたけど。昼と夜の動きは確かに二面性があるっていうか、ちょっと違和感はある。ただ活動時間帯は被らないし、やっぱり同じ人物っていう可能性もあるよね」
「そうなんだよね。昴、男の顔立ちは一緒だった?」
「ごめん。車の写真を撮らなきゃと思って、さっきの男の人の顔はちゃんと見てなかった」
運転手付きのハイヤーは、二人の男性をおろすとさっさと発車してしまった。彼らの用事が終わる数分前に戻ってくるつもりなのだろう。動きがある分、駐車場に止まった車に乗り込まれるよりは出てくる時間を読みやすいと踏んでいるが、実際に車両が走り去る場面を目撃した時はそこまで頭が回らなかった。彼女が車体の方に気を取られてしまったのも無理はない。
わずかに目をそらす昴に手を振って気にしてないと示しつつ、テーブルに転がされたペンを借りた。黒い男の横に“二人いるかも?”と付け足す。
「いまさら、かもしれないけど」
書き込みが増えたノートを見ながら考えこんでいると、昴がふいに声をあげた。顔を上げると、彼女は両方の手のひらをにぎりしめ、膝に置いていた。珍しく、目が合わない。
「ハチは、本当に記憶を取り戻したいって思ってる?」
「え、なん」
なんで、と問いかけそうになって思い当たる。魔女は、猫化と記憶喪失は僕自身が望んだ結果だと言っていた。その話が正しいなら、記憶を取り戻すことは、過去の僕の意思に反する行いなのかもしれない。
膝の上に目線を落とす彼女の視界に入るように、僕はスマホを持って机の端まで差し伸べた。
「確かに、ちょっと考えたよ。猫になってまで、記憶を無くしてまで、僕は何から逃げたかったんだろうって。でも、今の僕は、逃げたくないんだ」
人差し指をプラスチックの本体から離すと、引っ掛けていたストラップがだらんと垂れる。その先についている、スマホにつけるには少し大きいたい焼きのスクイーズが振り子のようにゆっくり揺れた。
「どこの誰かもわからない僕を拾ってくれて、一緒に買い物をして、料理をして、魔女まで探し出してくれて。そこまでしてくれた昴に、お返しがしたい。元の僕がお返しできないような環境に身を置いていた可能性もあるけど。もしそうだとしても、記憶を取り戻すことが、ここまで協力してくれたことへの恩返しになると思うから。これのお礼も含めて、ね」
自分の気持ちをきちんと伝えようとしたら、ちょっとかっこつけた言い方になってしまった。ふわふわと浮いた気持ちをごまかすためにスマホを軽く揺らす。先っぽについているたい焼きは、より大きく振れた。
――なんか、こうしていると泳いでいるみたいだな――
そんなとりとめのないことを考えてしまうのは、昴がなかなか顔を上げてくれないからだ。もっと、言葉を重ねたほうがよいだろうか、と悩み始めたところで彼女はようやく口を開いた。
「本当に、私への恩返しっていう理由だけで、記憶を戻そうとしていいの?」
「もちろん」
僕は即答してから、ふと彼女と出会った時のことを思い出した。野良猫を拾って助けるというのは、彼女にとって何のメリットもない行為だ。正直、今でもそう思う。でも彼女はあっさりと、“怪我してたから”という理由だけで家においてくれた。いま、彼女はあの時の僕と同じ思いを僕に対して抱いているのかもしれない。
「それが、私と会う前の、ハチの意思じゃないとしても?」
「以前の僕はわからないけど、今の僕、ハチは過去に何があったか、思い出したい。昴に助けてもらってからずっと、“ハチ”の考えは変わらないよ」
はっきりと言い切ると、彼女はこぶしをぎゅっと握りしめた。小さく息をつき、ゆっくりと顔を上げる。
「責任重大だね、私」
「昴はそのままで、いい。気負わなくても、きみが考える普通の生き方に、僕は救われているんだ。どんな記憶が戻ったとしても、昴に対する感謝は忘れない」
「……タラシ」
ようやく目が合ったと思いきや、そういってすぐそらされてしまい面食らう。反射的に“タラシはそっちだよ”と返しそうになりつつ、落ち着くために窓の外に視線を移して、はっとした。
「昴」
「うん。行こうか」
即座に意識を切り替えた昴も気づいたらしい。僕たちはすぐに席を立ち、急ぎ足でレジへと向かう。
眼下の道路には、さきほどスマホの画面で見たのと同じ車が停まっていた。
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